スタンリー・キューブリック「アイズ・ワイド・シャット」評

 見ることへの快楽へと浸る

「アイズ・ワイド・シャット」という作品は、正直なところ、スタンリーキューブリックの遺作である部分だけが強調され、作品自体の評価は、今にいたるまでどうにも中途半端でボヤけたイメージが付き纏っている感じが否めない。端的に言って私はこの作品の魅力に取り憑かれている。今までこの作品を何度観たか知れない。
 10年前に初めて観てから、毎年12月の寒い冬の夜に観るのが恒例だから、最低でも10回は観ていることになる。いったいこの映画の何処がお前は好きなんだと問われれば忽ち答えに窮してしまう。強いて挙げるならば、すべてだ、と答えるしかない。この映画に出てくる俳優たち、衣装、台詞、仕草、ニューヨークの街並み(後述するがスタジオセットである!)、音楽、映像、照明、視覚に入るもの、遍くすべてに私は魅了されている。勿論私とて、キューブリックの数ある名作の中でこれが一番だと言う程の厚顔無恥ではない。「博士の異常な愛情」を「時計じかけのオレンジ」を「2001年宇宙の旅」を「フルメタルジャケット」を「シャイニング」を「現金に体を張れ」をそして何より「バリーリンドン」があるのだ。しかし今挙げたどの作品にもアイズワイドシャットほど、私をガタガタにし、幻惑し、途方に暮れさせることはない。


 まず冒頭、ショスタコーヴィッチの音楽が流れる中、ニコール・キッドマンがトイレで用を足すシーンを観た時に軽い目眩を覚えてしまう。高価なドレス、眼鏡、片手には雑誌を持っている。どことなく放たれるアンニュイなムード。全てが完璧だ。これで萌えるなと言う方が無理である。表情、仕草、ドレスの切れ込みから覗く大腿部の角度に到るまで、フェティッシュな官能を昂める為に細部まで計算、機能されつくされた卓抜なショットである。(因みに桑田佳佑はこのシーンが何より好きらしい。さすが絶倫!)夫に財布の在処を教えながら排尿後の陰部を拭う彼女は知っている。何を?これから富豪の邸宅で催される晩餐会が如何に豪華で、煌びやで奢侈を極めたものであり、そして何よりも絶望的に退屈であるか、ということをだ。

 夫のビルは、産婦人科の医師であり、ニューヨークの高級マンションで妻のアリスと娘の3人で暮らしている。傍目から見れば誰もが羨む身分だ。しかし夫婦は倦怠期で、お互いに満たされないものを抱えている。ありふれた構図。余りにも通俗的だ。(こういった角度で映画を観ていくと忽ち肩透かしを食らうであろう。)
 ビルは慣れた手つきで妻をエスコートし、友人である富豪の邸宅に向かう。そこでは既に多くの社会的成功者たち、実業家、弁護士、医師、モデル、女たらし、が集まっている。しかし、この一見するとなんの纏まりのない晩餐会であるが、その実全く破綻がない。寧ろ堅牢な規則のもと統制された印象を受ける。それはここに集まる者たちが、他者から与えられた自らのイメージを忠実に演じているからに他ならない。女たらしは女たらしらしく、成り上がり者は成り上がり者らしく、ビッチはビッチらしく、そして夫のビルは前途有望で誠実な医師を卒なく演じる。一方のアリスの方も伊達男に言い寄られるが、見事にそれをかわす貞淑な妻を演じてみせる。
 人はこの光景を目の当たりにして、高度な舞踏会を見るような錯覚を覚えるであろう。アクロバティックな会話の駆け引き、相手になびく様でなびかない。綻びが生じるも次の瞬間には直ぐに修復し、秩序は保たれる。会話の為の会話。
 
 しかし、その秩序はビルの学生時代の旧友と邂逅したことによって俄かに揺らぎだす。後日会ったその友人によると会員制の秘密のパーティが、その夜催されると言う。安定した生活をしてはいるが、刺激に欠ける生活をおくっているビルはこの話に食いつく。好奇心旺盛な彼は早速行動に移す。どうにかドレスコードである仮面とタキシードを調達し、パーティが開催される邸宅へと向かう。
 その町外れの山の中にある広大な邸宅の中で、深夜に繰り広げられていた光景は目を疑いたくなるものであった。それは複数の男女が所を選ばず欲しいままに互いの肉体を貪る姿だ。仮面の下で、彼は驚きとともにそれを見る。ここで注目したいのはこの乱交シーンの猥雑性の欠如についてだ。全く肉感性に欠けているのだ。身も蓋もない言い方をするならば、まったくそれはエロくないのだ。その印象は、またしても舞踏のようである。自らの肉欲を満足させる恣意性はここにはない。何か淫靡さを装った怜悧さがある。そう、これは前半の富豪の邸宅で行われた晩餐会と見事なシンメトリーを描きだす。同じフィルムのネガとポジなのだ。
 ここにあるのも一見すると無秩序であるように見えるがその実、堅牢な規則によって整序されている。その証拠にその規則に無知だったビルはあっさりと部外者であることが露顕する。大広間で会員たちの好奇の視線に晒される中、彼はリーダー格の男に尋問され、仮面を脱ぐ様指示される。しかし、この危機的な状況の中、助けの手が入り解放される。何とか危機から抜け出すことに成功した彼だが、それを境に、彼の日常に不穏な影が差し出す。常に誰かに付きまとわれ、彼に口を滑らし仮面パーティの存在を漏らした友人は謎の男たちに連れ去られたらしい。
 我々は、ここでいよいよ物語がサスペンスの様相を呈してきたことに居住まいを正して見入る。しかし、またしてもここで我々は肩透かしを食らわされる。仮面パーティに参加していた富豪の口からビルに漏らされた真実は、余りにも通俗的なものである。ここに至り、多くの者は落胆し、批判的な言葉のひとつでも漏らしたくなるだろう。サスペンス映画として観るには余りにもオチがショボいし、社会に対するメッセージ性やイロニーとして観るにはそれらが著しく欠けている、と。 
 

では、この映画を私はどう観たか。それを一言で簡潔に述べるとすれば、作家の中原昌也の言葉を引用させていただく。
 「この映画はトムクルーズがハラハラしてるだけの映画だ」
 全くその通り。これほどこの映画を過不足なく要約した言葉を私は知らない。我々はこの映画に何か意味が、隠されたメッセージがあるのではないかと、それを必死になって探し出そうとする。それはこの映画に関わらず凡ゆる映画、いや、凡ゆる芸術作品に接する時の不可避の態度である。作家によってはそんな受け手と結託し、御誂え向きな記号を程よく配し、我々を予定調和なイメージへと収斂するように誘導する。そこで我々は安心する。作品を理解したと錯覚する。掴み所がなかった、過剰な作品を所有したような気分になる。翻ってこの作品はどうであろうか。安心どころかこの作品は我々を不安にさせる。ある一定のイメージに収斂するどころか茫漠とした広野へと我々を連れ出す。掴んだと思った刹那、砂のように指の隙間からこぼれていく。作品に対する我々のいつもの専横主義が通用しないのだ。だからこの作品に意味を付与したり、理解などしようとしてはいけない。キーワードはただ虚心に見ることだ。(タイトルのアイズワイドシャットとはしかし何というパラドキシカルなメッセージであろう!)
「見ること。」そう、我々だけでなく、主人公のビルもこの映画で許される行為が「見ること」なのである。なるほど、美男子の彼の周りには多くの女性が群がる。冒頭の晩餐会のシーンでは、モデル風の美女を両手に侍らせているし、患者の娘には接吻されたりもし、成り行きで娼婦を買ったりもする。
 しかし、いずれのシーンに於いても彼の性は成就することなく、お預けを食らってしまうのだ。あまつさえ、夢の中ではあるが、若い将校に妻を寝取られてしまうのだ。それはこの映画の中で、彼が去勢されているというより、男根期以前の口唇期にあることを印象づける。自らの性リビドーを、未発達な生殖器に関連させ満足させることが出来ない幼児は、その生殖器の代替物として、ひたすら対象を見ることによって欲求を満たそうとする。誰しも小さな子どもにじっと見られた経験はあるであろう。ビルは正に、そんな見ることしか出来ない幼児なのだ。その最たるものがあの仮面パーティのシーンであろう。子どもである彼は、大人の舞踏会に参加することができない。彼は周囲で繰り広げられる性交にただ指を咥えて見ることしかできない。何故なら、彼の男根は生殖器として未発達だからだ。
 ここに於いて受け手と演者の心理的紐帯がもうひとつあることに気付くだろう。他でもない、キューブリック自身である。一体どういうことであろうか。
 私はこの映画の撮影中キューブリックは、今までにない万能感を覚えていたのではないかと推測する。キューブリックのフィルモグラフィとは、衝突と軋轢の歴史である。自らの作品の完全性を貫く為に製作者、映画会社、俳優問わず彼は衝突を繰り返してきた。それが為にいつしか彼に対して変人、偏屈、奇人、そして天才といったイメージを我々は抱くようになった。そのような争闘の歴史の中、晩年を迎え、巨匠の地位となった彼は、遂に長年望んだ制作環境を手に入れる。そう、誰にも製作の干渉を受けないということだ。この映画の撮影にあたり、彼はイギリスのスタジオに、ニューヨークの街並みを再現させ、あまつさえ、トムクルーズ、ニコール・キッドマンといったハリウッドのビッグスターのスケジュールを一年抑えたのだ。正にスタジオセットと実際の人間を使った壮大なる人形遊びではないか。
 口唇期に於ける幼児は客観的には性的、物理的に不能、無能であるが、主観的には万能感に溢れている。自他の区別がつかない幼児は、自分の欲望が母親の手によって成就されていることを認識できない為、自分は何でもできると錯覚する。制作時期のキューブリックは、この種の万能感に浸っていたのではないだろうか。撮影はかなり難航したらしいが、キューブリックは、この映画を完成させるよりその製作過程の万能感、多幸感にずっと浸っていたいが為に故意に撮影を長引かせたのではないかと邪推したくなるほどだ。


 そしてこのキューブリックの心理状態を投影されたのがビルなのだ。ビルは、自らの不能さを覚るとともに、これまでに信じて疑わなかったもの、自明性を揺るがせるものと対峙する。そのきっかけとなったのはアリスの夢の話である。
 妻の貞操観念を信じて疑わなかった彼は、たとえ夢の中であれ、その貞淑さの裏で生々しい肉欲を持っていたことに愕然とする。そして次の場面では、ビルの患者であった男の通夜に向うが、そこで婚約者もいる娘から衝動的な接吻と愛の告白を受ける。彼にはなにもかも分からなくなってしまう。何故アリスは夢の中で別の男と関係したことをわざわざ告白したのか、何故患者の娘は、自分の父親の亡骸の前で、結婚前であるにも関わらず大胆な告白と接吻をしたのか、たった今、彼女たちがしてきたことをどのように理解して良いのか全く分からなくなり途方に暮れる。
 蓋然性の崩壊した彼は、これまで培ってきた自信を失い夜の街を彷徨う。そんな時に旧友から秘密のパーティがあることを知り、そこへ向かうも肝心のお楽しみには与れず(自らの不能さ故)更に深い失望と挫折を味わう。ここには「見ること」の快楽と「見ること」しかできない絶望といったアンビバレンスが見事に表象されているといえよう。
 その後、彼の身の周りに起こる様々な不穏な出来事は、冒頭でも述べたように余りにもありきたりな内容であり、彼は妻の前で全てを告白して許しを乞う。かくして彼のイニシエーションは完了する。

 最後に、クリスマスで混み合うおもちゃ屋で、夫婦はこれから何をすべきかを話し合う。そしてアリスが敢然と口にする、「私たちに今、必要なのはファックよ。」という台詞に、言語的な世界から感覚的世界への移行を我々は読む。「考えること」から「見ること」「感じること」へ。
 正に理解不能な妻の言動や心理、仮面パーティの意味を必死に考えようとした彼が、遂に何もわからなくなってしまったことに対するアンチテーゼなのだ。しかし、このテーゼは古くからのキューブリックファンを大いに戸惑わせる。何故なら、キューブリックという作家は常にその作品の中で隠されたメタファー、アレゴリーやメッセージといったものが含意されており、ファンは各々の解釈でそれを読んできたのだから。その最たるものが「2001年宇宙の旅」のモノリスであることは言うまでもない。その思わせぶりな、ある種の謎が最後の最後に箱を開けてみると実は何も入っていなかったというのだから何とも痛快ではないか。天国でウィンクしてみせるキューブリックの天邪鬼な笑みが見えるようだ。
 この作品で、キューブリックは凡ゆる意味や言語の桎梏で窒息しそうになっている我々にもう一度、原初期の記憶、虚心に見ること、感じることへと遡行することを誘う。あのオプティミズムに溢れた記憶。見ることの喜び、驚き、そして官能へと。そして途方に暮れることへと。

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