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【短編小説】小指の記憶

あれはいつだったかな。そうだ、あの頃は左手に指輪があった。握ったその手はか細くて、でも心地よいくらいあたたかかった。
左手を天井に向けて伸ばしてみる。眼鏡をかけていなくてもわかる。小指には日焼け痕すら残っていなかった。
覚えていない夢が数ある中で、捨てたはずの記憶と共に起こされた。
最悪の寝覚めだ。

嫌な記憶ではなかった。むしろ楽しいことの方が多かった気がする。それでも、いやそれだからこそ、無理やり忘れようとして苦しんだ。だから辛くて苦しかったことだけしか記憶には残っていない。名前も声も表情も、付き合い始めも終わり方ももう覚えてはいない。

一度取り出した記憶は、仕事中でも関係なく気を抜くと顔を出す。その都度頭を振り、コーヒーを飲み、頬をつねった。それでも雲間からチラチラ覗く光のように、現れては消えた。首にかけたネームプレートをぎゅっと引っ張った。

彼の声で呼ばれる私の名前が、一番好きだった。何度も名前を呼んでほしくて、何度もお願いしていた気がする。それからだったなそう言えば。名前で呼ばれるのが嫌いになったのは。あれから誰にも名前で呼ばれていない。誰にも、呼ばせなくなった。

まっすぐ帰るのが嫌になって、小さな中華料理屋に寄った。コートを脱いで座ると奥から大きな声が聞こえた。真っ赤な顔の彼らの声は、今の私にはちょうど良かった。
右手で餃子を持ちながら、左手をじっと眺めてみた。あの頃よりはたくましく、あの頃よりも爪はキレイになったと思う。
どうして今になって夢なんか。そんなに長い付き合いだったわけでも無いのに。グシャグシャに泣いた記憶だけが残っている。あの頃も変わらず仕事をして、ただ毎日を生きていて。それでもなんとなくだけど、今より背筋は伸びていた。
座りなおして背中を伸ばす。首と肩が少し痛い。
「君はほんとに美しいね。」
ふと、彼の声が聞こえた気がした。そういやあったなこんなこと。
「だから君って言わないで。」
「そういうところは可愛いね。でもやっぱり美人だよ。」
聞こえなかったふりをして、私はビールを飲み干した。

帰宅して、風呂を済ませて鏡の前でビールを開ける。右手で美容液を塗りながら、左手でグラスにビールを注いだ。
なんて言ったんだったかな。美人だキレイだ褒めるあの人に、なんて言い返したんだろう。ダメだ、全く出てこない。諦めてビールに口をつけた。
「すっぱ!え、なにこれ酸っぱいんだけど。」缶を見てみると、レモンビールとしっかりと書いてあった。果汁8%も入っている。
「ふふふ。ふふふふ。なんだよ。あははは。」
なんだかわからないけど、笑いが止まらなかった。笑いながら、泣いていた。涙も止まらないけれど、笑いもずっと止まらなかった。

ひとしきり笑って泣き止んで、台無しになったスキンケアをそのままにして私は眠ることにした。仕方なく眠りにつくんじゃなく、自分から眠ろうとするのはいつぶりだろう。
もう彼は出てこない。彼の夢はもう見ない。きっともういつだって思い出せるけど、きっともう思い出すことはない。
明日、指輪を買いに行こう。小指に似合う、小ぶりなやつを。大きく大きく息を吐き、明かりを消して目を閉じた。


その日は月が綺麗だった。
「今日は月が綺麗だね。」 おぼつかない足取りで私は空を見上げた。
「そうだね。星はあんまり見えないけども。」
よろめく私の肩を、彼は両手で支えてくれた。
「綺麗なだけじゃ飽きるでしょ?私はあなたを驚かせる人でありたいの!」
大きな声で彼に言った。彼は目を丸くして両手を上げた。「まいったな」と頭を掻いて、優しく笑った。
「じゃあ僕は君がいつまでも笑っていられるように、君を楽しませる人でいるね。」
彼は静かに手を握った。
君って言うなって言ったでしょと、私は彼の腕をつねった。


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