New York - 初めて稼いだ米ドル
2000年の5月26日、3年半の大学生活を終えて、私は無事 F.I.T. (Fashion Institute of Technology / SUNY=ニューヨーク州立ファッション工科大学) を卒業した。
卒業の安堵感も一瞬の事で、1日も早く仕事を探さなければならなかった。しかも、アルバイト的なものではなく、正社員としてのポジションを。
学生ヴィザから Optional Practical Training へ
学生ヴィザ (F1) に関して言えば、私はとてもラッキーだったと思う。一度の学生ヴィザ申請で、最長の6年間を受け取った。
留学生の、クラスメートの中には、途中でヴィザの期限が切れる為に、延長願いを出したり、自国に帰って、再申請しなければならない境遇の友人も、いた。
6年もらっても、卒業したら、この残りの期間は無効になる。その代わりに、専攻と同じ分野の仕事ならば、合法的に働いても良い資格の付いた、O.P.T (Optional Practical Training)が、1年間与えられる。
これは、学生ヴィザ の status (ステイタス=資格) の元で勉強したり、得た技術・能力を使って、働いても良い、という期間になる。つまり、法律的には建築の勉強をしたのに、レストランでシェフの見習いをするのは、ダメだ。という事になる。
手強い新卒の就活
卒業生は、卒業制作品の、発表展示の機会が与えられる。大学構内に、全ての学部からの、作品が一斉に展示され、ちょっとした美術館の様になる。
展示会場には、あらゆる業界のリクルーター達も訪れる。可能性のある卒業生を、自分たちのクライアント(=会社)へ、送り込もうと、視察するのが目的。
私の作品も、何人かのリクルーター達の目に留まり、彼らと面接をした事もあったが、労働ヴィザのサポートが必要だと知ると、その辺で、話はスーッと、消え去って行く。
雇う側にとって、労働ヴィザ(=H1) のサポートは、面倒な話。他に、いくらでもアメリカ国籍や、永住権を持った生徒達がいるのに、あえて外国人を雇うほどのことはない。それが現実だった。
Freelancer になっていた
最終的には、運よくH1 のサポートを得て就職したのだが、その話は置いておき、それまでに始まった、私の『内職』の話をしたい。
友人から、知り合いが、自宅に置いてあるソファーのカバーを作ってくれる人を探しているが、やってみないか?と、聞かれた。
ミシンを持っていないと言うと、友人が調達してくれると言ったので、引き受ける事にした。これが、私がニューヨークに来て初めて、請け負った仕事になる。
ソファーを見てみると、思った以上に大きく、肘おきと、背もたれの部分に段差がある、凹凸のある形だった。紙に手書きで見取り図の様な物を書き、採寸した数字を、記入していった。
生地は、既に用意してあったので、必要なものは縫い糸だけ。一つ一つの寸法を確認しながら、見取り図を見直していった。
殆どが、直線縫いなので、決して難しい事はなかったけれど、やはり最初のプロジェクトで、これでお金をもらうのだと思うと、やはり少々緊張した。
多分、10日後くらいには、ソファーのカバーをお客さんに手渡して、現金で報酬を受け取った。いくらだったか、はっきり覚えていないけれど、$350〜$380くらいだった様な気がする。やはり、縫うだけではなくて、パターンも実際に作るという事で、これだけもらえたのかもしれない。
その後、不思議と、次々にこういう縫い物の仕事が入ってきた。Showroom で小道具として使う、色々な形や大きさのテーブルクロスとか、劇場で使う大道具としてのカーテンや、クッションカバーなどの小道具類。
当時私は、女子寮に住んでいたので、住人の洋服のお直しもやり始めた。殆どが、着丈の長さや、ウエストの大きさを調節したりする内容だった。
そして、結構忙しくなり、一日中、縫い物をしている日もあったりした。
初の米ドル現金収入
ソファーカバーを作って、初めての米ドルを、キャッシュで手にした時、嬉しかった。もちろん、デザインの仕事ではなかったけれど、そんな事より、専業主婦だった自分が、ニューヨークで、初めて米ドルを稼いだ。その事実で興奮していた。
一月分の家賃にもならない金額でも、すごく大金を手にした気分になって、「もっと稼いでお金を貯めよう」と、変な「張り切り」が出てきた。
しかも、『就職』という、最も大切な目的は、未だに先の見通しさえ見えていなかったのにも、かかわらず・・・。
母への贈り物
結果的に、私は自分の OPT 期間を、この『内職業』にほとんど費やし、1年間の期限の切れる少し前に、就職が決まった。
この OPT の間に Freelancing で貯めたお金で、母に腕時計を買った。それは、就職が決まったら、初任給でプレゼントをしようと既に決めていた、Tiffany (ティファニー) の腕時計。
それは、去年年が明けて、間もないうちに、突然やってきた。日本で COVID-19 が蔓延する直前の事。母は、亡き父の元へ旅立った。そしてこの腕時計は、私の手元へ、20年ぶりに帰ってきた。
「この時計はとても軽くてね、見やすいのよ。」母は外出の度に、そう言っていたと、姉が私に話してくれた。
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