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「頑張ってる割に大した事ないね。」
お黙りなさい。
努力をしていなかったら、もっと事態は悪化していたのかもしれないという、発想の転換がなぜできない。
「鍛えている割に弱いんですね」
PrimeVideoで公開されている『ドキュメンタル』において、好きなくだりがある。FUJIWARAの藤本さんと、アームレスリングの選手に扮した、ずんの飯尾さんの掛け合いだ。(以下の引用内容は若干のアレンジを加えている。)
藤本「普段鍛えてるって言いますけど、どのくらいの勝率なんですか?」
飯尾「通算2勝36敗987分け。」
藤本「引き分け多いな…鍛えててそんなに弱いんですね?」
飯尾「鍛えてるから、このくらいで済んだんだよ。」
最後の台詞がいい。たった2回の勝利だが、努力なしでは成し遂げられなかったものだという。
どんな分野であれ、そもそもの土台が低い人間は、一人前になるまでには他者よりも多くの努力が必要になる。一人前の評価を得るまでは、時間がかかる。だが、努力が”結果”として現れるのは、一人前としての”評価”がされるよりも早い。
戦闘力53万のフリーザに勝つまでに孫悟空がすべき努力量と、ラディッツに戦闘力たったの「5」と評価された地球人がすべき努力量は、決して同じではない。
しかし、地球人も修行をすれば、戦闘力が1000ぐらいにはなる。その地球人は、フリーザに勝てるという評価には値しないが、努力の結果は現れている。弱いことには変わりないかもしれないが、少なくとも、努力に結果は伴っている。
結果と評価の誤謬
インターネットには他人の努力をバカにし、成長の足を引っ張る悪魔が一定数存在する。匿名性のSNSは、心無い発言をする未熟な人間が集う、私立誹謗中傷学園だ。みなさんの近くに、学園生がいないことを願うばかりだ。
・「この人、毎日noteを投稿している割に文章力がない」
・「昔からずっと女キャラを描くのが下手だな」
・「筋トレしてるアピしてるのに、腹筋割れてなくない?」
学園の生徒たちは、何も考えずにこのような発言をする。私はこれを、結果と評価の誤謬と呼んでいる。
(というか、今呼び始めた。)
太っている人間が「趣味は筋トレです」と発言することには、何も不自然な要素はない。要するに、努力は、すべてが評価できる形で現れるわけではないということだ。
A「筋トレしてるアピしてるのに、腹筋割れてなくない?」
B「うん。なんなら、筋トレなしだと今の体型にすらなれていないよ」
努力の「評価」と「結果」は違う
偏差値0から東大医学部を目指すために必死に受験勉強をしたが、ギリギリのラインで不合格になった生徒は、「努力をしていなかった」のだろうか。「努力した結果は伴ったが、合格という評価には値しなかった」ではないか。
「報われない努力もある」という聞きたくもない残酷なフレーズがこの世には存在するが、報われないというのは、努力が評価されなかった状態を指しており、決して、結果が伴わなかったことを指しているのではない。
余談
努力について書いているうちに、「努力による結果と評価は違うの概念なのではないか」と思い、書いてみました。
投稿前にざっと見返したら、ずっと同じこと言ってますね。
ドキュメンタル見て寝ます。
おわり
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