がんばることをやめたら流れが変わった
悲しくて寂しくてたまらない。
外に出ても孤独を感じる。
話す人は誰もおらず、世界で一人ぼっちになった気がする。
私がいてもいなくても、誰にも関係なくて、存在が消えても、世の中は動くんだ。
突然いなくなったら、誰か悲しむ人がいるのかな、とか考えた。
人は必ず死ぬ。しかも一人っきりで死ぬ。
これほどの孤独はないよね。でも今の私もかなりの孤独だ。
しかも生きていかなければならない。
「生きていかなければならない」??
本当に?誰が決めた??誰に言われたわけでもないのに、生きていくのに「ねばならない」ってなんか違う気がする。
めちゃめちゃ肩に力が入った言葉を発している。
「ただ淡々と生きていく」に変えよう。
ここまで頑張ってきたのだから、ねばならないとかやめにする!
「命ある限り、ただ淡々と生きていく」
「抗うことなく、がんばることなく、流れるように生きる
ただ、お金を稼がなければならないので
おっ!また出た。「ねばならない」。
どうしてこういう思考になってしまうのか、考えよう。
これまでの人生、ピンチが来ても、どこかから必ず手助けが入って、難問もするりと超えることができてたじゃん。
仕事を辞めて介護一本に専念した時も、お金はなんとか回っていたじゃん。
どんなに合わないケアマネやヘルパーさんに出会っても、何人も何人もケアマネが登場して、私の思いをわかってくれる素敵なチームができたじゃん。
そのチームのおかげで、一人で自宅介護できたじゃん。
その時々の鍵は「ねばならない」をやめて、もう無理だと、「がんばることをやめた時」だったよね。
今、孤独に思えるけれど、声を上げれば助けてくれる人がいるはず。
その声を上げないのは、なぜ?
なぜだろう。弱音を吐きたくないのかな。泣きたくないのかな。
母にヘルプと言ってみたが、高齢なので、さっさと自宅に帰ってしまった。
誰かがいてくれている時はいいんだよ。
でもね、また一人になると、さらにつらくなってくるのよ。
それなら一人に早く慣れた方がいいな。
介護をすると決めた時、「夫の介護をしたい」と思った。
たくさんの人を助ける仕事がしたいと思ってやっていた仕事だったけれど、目の前の夫が苦しんでいるのを助けなくて、よその人を応援している場合じゃないと気がついたから。
何にも考えずに、飛び込んだ未知の世界は、それはもう大変だったけれど、やり切った感はある。
あの時、仕事を続けて夫を施設に入れていたら、たくさんの後悔でどうなっていたかわからない。
自宅介護を始めて、どれくらいの期間が過ぎたのかさえ、わからない。
スケジュールを見返して、ようやくわかると思う。
今はそれもしたくはない、これまでのことを振り返るのがつらい。
途方もなく長く、あっという間の時間だった。
キャリアを途中で投げ出すなんてもったいないと言われたりしたけれど
もったいないキャリアなんて持ってないし、介護が仕事だと思った。
社会復帰をしようとした今、キーボードもまともに打てなくなっている。
操作方法もすっかり忘れている。
四十九日は残された者のリハビリ期間でもあるのか。
社会に出ていける自信はないけれど、以前とは違った方法で出ていこう。
あの頃の私はもういない。
今は、人生のどのステージなんだろう。
少しずつでもいいから、ステージが上がっていってるといいな。
夫がいなくなったことは人生最大の悲しみだけれども
生きていく意味や、残された時間の使い方を考えさせてくれた。
ぼーっと生きてても1日。
「今日もやり切った〜」と笑顔でベッドに入りたい。
そんな日ばかりじゃないだろうけれど、ぼんやりする日もあっていいじゃん。
だって、これまで物凄く頑張ったよね。
全力で介護をしたよね、できることはなんでもやったよね。
ここからは人生を楽しもうよ。
ねばならないを卒業して、自分のやりたいように生きよう。
自分の最大の味方は自分。自分に嘘をつくことなく、自分を大切にしよう。
さて、そろそろマッサージに行く時間。
空を見上げながら、出かけよう。
そんなこんなの 社会生活へのリハビリ開始から17日目の今日。
17日目の私へ
2500字越えの思いをしっかり受け止め、文字数減らしました。
前を向いて歩き出そうとしているね。
「チーム新堂」のみなさんにまた会いたいね。