自分 さらにその後-1
「3年が一つの区切り。それ以上、外国にいるようだったら、ずっといることになる」。
日本を出てバックパッカーでスウェーデンに行ったとき、当地の大学で教鞭を執っているという日本人の方と会い、「1、2年したら帰国するつもり」と話したら、そう返された。氏の言ったとおり、海外暮らしは1~2年で十分と思っていたのに、いつの間にか3年が経過。そのタイミングで日本に帰ると決めた。パリの日本食レストランでバイトをしていて、お客の注文の天ぷらを揚げているとき、「日本に帰った方がいいんじゃないのか」と思ったから。
そして日本に帰ったものの、2~3カ月でパリに戻ってしまっていた。ただ漠然と、日本での生活は無理だと思ったから。やはり氏の言ったとおり、それ以降ずっと海外暮らしが続いている。
仕事は元の木阿弥、日本食レストランでのバイトだったが、料理人は自分に合わないと分かっていたので、ほかに何かできることを探していた。思い付くのは写真と航空機整備。
写真は小6で鉄道写真にはまってから断続的に撮っているので慣れたものだが、しっかり勉強したことはなかった。勉強したところで、肝心のセンスがあるかどうか分からない。センスがなければ食べていけない。
航空機整備は日本を出る前、陸自の航空科にいたので感覚はつかめている。勉強は難しいだろうが、がんばれば仕事に就くことができるだろう。一度は航空機整備士を目指し、パリで専門学校を探すことにした。
そう決めて1カ月も経たないうちに、ユーゴスラビア連邦でスロベニアとクロアチアが独立を宣言して内戦が勃発。航空機整備士への道はあっさり捨てて、写真でやっていくことにした。自分にはこれしかないと思ったから。
アルベール・カミュの異邦人に、「自分はたまたまこういう生き方をしてきたが、違う生き方もできた」とか「人が人生を選ぶように、人生も人を選ぶ」とか、何かそんなことが書いてあった。別に大した人間でもなく、大した人生でもない。自分もそのぐらいのノリで十分だと思って、気まぐれに旧ユーゴ内戦を選んだら、いつしかメディアという仕事に行き着いた。
独立を宣言した当時のスロベニア首都リュブリャナ(写真上)とクロアチア首都ザグレブ(写真下)。クロアチア兵は「ニヤけていなくて格好いい」と日本の女子に好評の写真だったが、自分としては兵士が手にしている銃の方が貴重(隣国ルーマニア製AKM)。
写真は当時の紙焼きおよびポジをスキャンしたもの。