自分 さらにその後-2
取材には取材申請が必要となる。たいした騒ぎでなければ現場に好き勝手に入っていけるし、周囲の人間も止めることはないが、一国の独立となるとさすがにそう簡単ではなく、然るべき機関に出向かなければならない。
独立する側は多くのメディアへの露出が必要であるため取材歓迎だが、独立される側は多くに知られることなく阻止したい、という思惑がある。ユーゴスラビアの場合、行くべき先は連邦側のセルビアでなく、スロベニアとなる。ただフランスからの移動だと、まずは隣国イタリアへ、その東で国境を接するスロベニアへ、さらにクロアチア、ボスニア、セルビアへ、という位置関係。政治的な取材価値ではなく、金をかけずに簡単に行ける、という地理的な理由だけでスロベニアを選んだ。
そのスロベニアの独立は「10日間戦争」という小規模な衝突で達成された。自分といえば、独立直後の首都リュブリャナを歩いて回って終わり。取材でも何でもない、ただの観光。
その後、隣国のクロアチアで内戦が始まる。スロベニアから撤退した連邦軍がクロアチア内の同胞に合流。態勢を整えてそこそこの規模となり、同国独立の阻止を試みたからだった。
クロアチアの首都ザグレブで、情報省がホテルの一画を借りてプレスセンターを開設していた。まずはそこへ。取材申請というのは普通、勤務先からのレターを提出し、記者という身分証を提示する。身分証というのは、国が交付するプレスカードであったり、勤務先のメディアが発行する社員証であったり。フリーランスといえども、どこかのメディアの依頼を受けて取材に訪れる、という前提なのでレターの提出と身分証の提示の義務は変わらない。
では当時の自分はどうだったのかというと、勝手にやって来ただけなので手ぶら。プレスセンターに赴き、かくかくしかじかと説明する。早い話、「記者じゃないけどプレスカードください」という強要だった。
担当官は寛大だった。
「事情は分かった。ただ我々も書類に不備があるとまずい。何かドキュメントはないか」。
念のために、と持ってきていたものがあった。日本への一時帰国でタイストップオーバーした際、バックパッカーの聖地であるバンコクのカーオサーン通りで作ったプレスカードだ。当時、というか今でもそうだろうが、学生証やら教員証やらありとあらゆる偽カードを作る露店があり、そこで International Press Assocation というみるからにチープなプレスカードを、1枚100バーツ(当時350円ほど)で作ってもらっていた。
「それでいい」。
かくして、クロアチア情報省にプレスカードを交付してもらえることになった。所属はIPAとなっていて、今見返すと恥ずかしくなる。それを持って国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に行くと、そこのプレスカードを交付してくれた。それを持っていれば、UNHCRの航空機や車両に同乗した取材が可能となる。
欧米人は頭ごなしにダメとは言わない。日本の役所のような前例云々もない。彼らの個人主義というのは、自分自身の主張にとどまらず、同等に相手の主張を尊重することなのだと知った。
いずれにせよ、このときにプレスカードを交付してもらっていなかったらこの道に進むことはなく、(良し悪しは別として)今の自分ではなかったと思っている。
独立直後のスロベニア首都リュブリャナ。写真は当時のポジをスキャンしたもの。