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サラエヴォに手紙は届かない

 サラエヴォに着いた翌日から戦闘が激しくなり、その日だったろうかその翌日だったろうか、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が安全を確保できないとして、輸送機の運航を見合わせてしまった。陸路で脱出できるわけなどない。運航が止まる=サラエヴォから出られなくなる、という意味になる。

 戦闘の状況によって飛んだり飛ばなくなったりしていたので、永遠に帰れなくなるという心配はなかった。そのうち再開する。とはいえ、気分的には追い詰められる。戦闘が激化しているといってもサラエヴォ市内で銃を撃ち合うような戦闘が起きているわけではなく、もっぱら狙撃と空爆。サラエヴォを包囲するセルビア軍は、高台の陣地から見下ろせる道路を歩く人々を見境なく狙撃。最もサラエヴォ市民が撃たれて倒れた通りは「スナイパー・アレー」と呼ばれ、車で猛スピードで走り抜ける以外、誰も近づくことができなくなってしまっていた。

 物陰を歩いていればスナイパーに狙われる心配はないが、空爆はかわせない。直撃を受けなくても弾が建物に当たればがれきが降ってくる。すなわち、外を歩けないから取材にならない。人々はみな、空爆が収まるとそろそろと家から出てきて飲料水や食物を確保。空爆が再開されるとまた自宅の奥の部屋や建物の地下室に潜り込む、という生活を続けていた。

 こちらはホテル住まい。戦闘がどんなに激しくても営業を続けてくれるのでありがたいが、電気も水もない。時期は11月、夕方4時には暗くなってしまい、真っ暗な部屋で寝るしかない。さすがに夕方4時に寝付けないので、自家発電で何とか灯りを確保しているホテルのロビーで時間をつぶす。市民全員が食うか食わずかなので、レストランが営業しているわけなどない。ただただイスに腰掛けていたら、そのうちホテルのマネジャーがスパゲティを入れただけの塩スープを持ってきてくれた。相当なご馳走である。

 ロビーに居座るのも飽きて、上階の部屋に戻る。毛布を4枚重ねても寒さを防げず、上着を着たままベッドに潜り込む。夜は永遠と思えるほど長く、遠くから空爆の音が聞こえているかと思えば、突然近くに落ちて爆音がとどろき、挙句の果ては泊まっているホテルに直撃して建物が揺れ、同時に地響きのような音とガスラ割れる軽い音が混じり合って聞こえてくる。自分の部屋かと思うほど身近だ。

 サラエヴォは世界中のジャーナリストにとって、来ようと思ってもそう簡単には来られない、聖地のような存在だった。そんな聖地に簡単に入り込めて喜んでいたのも束の間、今はサラエヴォから出られなくなってしまったことで、自己嫌悪に陥っている。命取りの軽率さだった。

 フランス人の彼女に手紙を書こう。サラエヴォに閉じ込められて4~5日経ったころに思い付き、なるべく落ち着いた内容で書いてみた。もう会えないかも知れない、自分としてはときどき思い出してもらえればそれだけで嬉しい、と書いてみる。どうみても遺書だが、ほかに書きようもないので翌朝、空爆も収まっていたので手紙を手に郵便局に向かった。

 郵便局に着く。爆撃でボロボロ、どう見ても営業していなかった。当たり前なのだ、考えなくても分かる。

 ホテルに戻っても仕方ないので、周辺をぶらぶらする。空爆の合間で10人ほどの子どもたちが外で遊んでいて、東洋人が歩いているといって喜んで近づいてきた。カメラを向けると、

「写真を送って」

と、ねだってくる。さっき郵便局に行ったらボロボロだったことを話す。子どもたちは、

「ああ、そうか」

と笑いながら散っていった。

さらにぶらぶら歩いてると、警官だという男4人が何をすることなく道端に座っていた。

「カメラ持っているのか、オレたちを撮って写真を送ってくれ」。

先ほどの子どもたちに話したことを繰り返す。男たちも、

「ああ、そうか」

と笑っただけだった。

旧ユーゴ内戦を舞台にした「ヴコヴァルに手紙は届かない」という有名な映画がある。手紙が届かない町はヴコヴァルにだけでなく、そこら中にあった。

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写真は全て当時のポジをスキャンしたもの。 

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