MY PARK STORY | 100人の公園論:ロマンやファンタジーを現実に。空想力と創造力を育む場としての公園。-Episode2 串野真也氏(ファッションデザイナー/アーティスト)
魅力的な生き方をしている人は、"自分にとっての公園(MY PARK)"と呼べるような居場所を持っているのではないか?という仮説のもと、人生と公園の関係性を、多種多様な100人との対談を通して深掘りするMY PARK STORY。
2人目は、ファッションデザイナー/アーティストの串野真也さん。串野さんは広島の因島で生まれ育ち、京都、ミラノでファッションデザインを学んだ後に自身のブランド「Masaya Kushino」をスタート。その活動の幅は広く、スノーピークやフットウェアブランドOAOのデザインを手掛けたり、ELLE JAPANにて二階堂ふみさん連載のアートディレクション、アーティストのスプツニ子氏とのユニットAnother Farm、最近では蚕(かいこ)の遺伝子を組み換えることで二酸化炭素を吸着する繊維の研究開発など、ファッションデザインの枠を超えた活動をしています。
その原動力を一言で言うとしたら、限りない「好奇心」。
決して情報も多くない因島での幼少時代から今に至る中で、串野さんのその好奇心はどう育まれたのかを探るべく、京都のアトリエにお邪魔しました。
レディー・ガガも着用したという作品に囲まれた中で串野さんのMY PARKに迫ります。
山で遊んだ幼少期。僕らは越境という冒険を楽しんだ。
渡辺:幼少期のお話から聞いてみたいのですが、因島のご出身ですよね?
串野:はい、広島の因島で育ちました。造船や八朔が有名な島ですが、すぐ裏に山があったり海にも近かったりしたので、自然の中でずっと遊んでいるような子供でした。祖父が手先が器用で自分で木材から船を作っちゃったりする人だったのですが、そんな祖父の手伝いをしながら横で釣りをしたり、スポーツは全然興味がなかったのでずっと山に入って基地を作ったりしてました。高校まで山に入ってましたね。
渡辺:高校まではすごいですね。
串野:小さい時って自分のテリトリーの距離感って曖昧じゃないですか。だから自分の住んでいる町から隣の町まで山を越えて行くことに意味があってそれが楽しかったんですよね。行ったことのない山道をどこに出るかわからないまま何時間もかけて歩いて帰って来るとかしてました。
渡辺:その感覚を持っている人って結構少ない気がします。僕も田舎で山に入っていたのでわかるのですが、今は田舎に暮らす子供でもあまり山に入らないって聞きます。ゲームもあると思いますが、山は危ないからって親が積極的に入らせないこともあるようですね。
串野:そうなんですね。確かにそれだと山どころか外にもあまり出ようとしなくなってしまいそう。
渡辺:僕が育った場所は山を開いて作った新興住宅地だったのですが、四方を山に囲まれていて、そこを越えると麓の別のまちに出られたんです。越える山によって違うまちに行けた。僕は移り住んできた人間で、麓は昔からそこに暮らしてきた人の土地で、そこに踏み入る感じが大人の行為というか不可侵のところに踏み込んでしまったという"艶かしさ"みたいな感覚が味わえたんですよね。だからよく1人で山に入っていた。
串野:その感覚はとてもおもしろいですね。分かる気がします。
ファッションの概念を変えるブランドとの出会い。服の意味が根本から違っていた。
串野:自然の中で育った僕がファッションに興味を持ったきっかけは、小学生の頃、スポーツクラブに通う子が多くて、みんな同じ様にスポーツウェアを着始めた時に違和感を覚えたからです。自分は絶対にジャージは着ないと決めた。因島では欲しい服は買えなかったので福山や尾道に行っていたのですが、最初はモデルとか服を着る仕事に興味を持って、そこから次第につくる方に興味が移っていきました。
ある日、通っていたセレクトショップの店員さんが、マルジェラ(*)を紹介してくれたんです。それが今まで自分が見てきた服とあまりにも違っていて衝撃を受けた。本で見せてもらったその服は美術館のガラス張りの中に展示されたカビの生えたドレスでした。エイジングの概念とか、服の意味がもう根本から違っていた。
渡辺:確かにマルジェラは衝撃的でしたね。
串野:その世界観に衝撃を受けて、中学ぐらいからファッション関係の仕事をしたいなとは思い始めていましたが、高2の時にファッションデザイナーになるって決めました。
京都、そしてミラノへ。自分自身が体験して得る感覚の大切さ。
渡辺:その頃から海外も意識していたのですか?
串野:そうですね。親戚がカルフォルニアにいて小学校3年か4年生の頃にひと月ぐらい行かせてもらえたのでその影響もあったと思います。最初は京都の服飾の学校に行ったのですが、それも海外で戦うためには自国の文化はちゃんと理解しておきたいと思ったからです。広島って戦争の勉強をする機会はすごくあるのですが、日本について教科書で学べる以上のことを体験したいと思ったんですよね。
渡辺:その後すぐにミラノに留学されたのですか?
串野:最初はパリに行こうと思っていたんですが、ミラノ、アントワープ、パリと見て回って、最終的にミラノに留学することを決めました。アントワープシックスという6人のデザイナーが活躍していたタイミングでしたし、パリももちろん魅力的だったのですが、その視察中、パリでスリと詐欺と食中毒になって心折れてしまい、結果ミラノを選びました。笑。
ミラノは0→1のクリエイティブという感じではなかったので結果的には自分の肌には合わなかったのですが、その当時のファッション業界はガリアーノやマックイーンの桃源郷のような華やかな世界で、自分に大きな影響を与えてくれました。
いま改めて故郷・因島の自然に魂が震える。
渡辺:因島から始まって福山や尾道、京都、ミラノと串野さんの人生が進んでいくわけですが、その中でも特に「公園的」と感じる場所はありますか?
串野:いまの歳になってより強く思うのはやはり自分が生まれた因島の良さですね。年に数回は帰るのですが、帰省すると自転車で因島を半周は絶対回ります。かつての祖父母の家から見える海も好きで、そこからさらに山沿いを走っていくと、水平線の先に山が連なって見える場所があるんです。因島って瀬戸内海の島なので周りにも様々な島があって、海の先に山がグラデーションになって見える景色には何か魂が震えるような感動があるんですよ。瀬戸内海のその風景は古から変わっていないんだろうと思わせてくれるタイムスリップのような、時間軸が分からなくなる感覚になるんです。
渡辺:少し違うかもですが、それに似た経験をしたことがあります。浅間山の近くでキャンプをした時に、夜にキャンプ場の先の街灯もない真っ暗な畑に出たんですね。しばらく歩いてそろそろ帰ろうかなと振り返ったら、幾重にも重なった山の稜線が月明かりに照らされて不思議な陰影を作っているのが見えた瞬間、魂が震える感覚がありました。
串野:そうなんです。不変的で、杉本博司さんの海景じゃないですけど、なんか美しくて涙が出るんですよね。理由はよく分からないんですが、懐かしさや尊しさを感じて。だから海外に行く場合もモンゴルやモロッコなど都市よりも自然のあるところに行くことが多いです。
アートの実用化でサステナビリティにプラスのインパクトを。
渡辺:環境に良い新しい繊維をつくるプロジェクトをされていると思うのですが、それも自然と向き合う中から出てきた活動なのでしょうか?
串野:そうですね。ミトコンドリアが光合成するように、二酸化炭素を取り込んで有機物に変えることができる繊維を作りたいと考えました。二酸化炭素の固定に優れたタンパク質を蚕に入れると、その性質を持った遺伝子組み換えの蚕が誕生するので、うまくいけば吐き出す糸が二酸化炭素を固定し分解できます。今は二酸化炭素を固定するところまでの実験をしています。
スプツニ子さんとのアートユニットANOTEHR FARMでは、クラゲのDNAを蚕に注入することにより、ブラックライトを当てると発光するという性質を持った糸を使った作品もつくりました。
串野:アートってリアリズムというよりも知的好奇心を刺激したり、思考の拡張や体験したことがないことを疑似体験するものが多いと思うのですが、それをもっと実用化したいという気持ちがあります。
いまファッション産業に限らずサステナブルな社会づくりに向けた議論がありますが、僕らが物を作ることが環境負荷になっている以上、人口の増加と共に"マイナス"も増え続けてしまうことになります。そこにプラスのインパクトを与えるにはどうしたらいいかを考えた時に、二酸化炭素を吸収してできれば酸素に還元する繊維ができたら素晴らしいと思ったのが最初です。まだまだ超えなければいけないハードルはたくさんあるのですが。
渡辺:串野さんは早い段階でファッションの世界を目指すことを決めたと思うのですが、今の話ってアートでもあるしプロダクトデザインの様でもあるし領域としては広いと思うのですが、ファッションの延長線上と思ってやっているのですか?聞けば聞くほどいったい何者なのかなと。
串野:そうですよね。笑。確かにいろんな側面を持っていて、スニーカーや舞台衣装のデザインをしたり、自分のアート作品を作ることもあるし、今は焼き物のリブランディングをさせていただいたりと、僕自身おそらく好奇心が旺盛なんだと思うんです。欲張りというか何かに携わりたいとか変えたいとか。"異文化"の人と話をしているとこうすればいいのに、こうしたらもっと良くなるのにと閃くことがあるとそれをやりたくなっちゃうんだと思います。
渡辺:初めて会った時から好奇心の塊みたいな人だなと思ってました。笑。一緒にいる人の話にどんどん乗っかっていく感じとか。おもしろい、やりたいとなったらどんどん突き進んじゃうのでしょうね。
串野:自分ができることがあればやりたいですし、自分以外に適任な人がいれば僕はやる必要がないと思っています。自分らしさが生まれるようなものを作り出したいというのと、問題解決をしたいという気持ちは強いですね。
突き抜けて、そこから戻ってくる。
渡辺:串野さんの"らしさ"ってどんなものですか?
串野:やっぱり自然なんだと思うんです。いまは人口が多いので人間のための地球という雰囲気がありますが、本質的には違うんじゃないかと。すべての命が平等になることは非常に難しいと思いますが、そうなればいいなと思っています。救えるのも壊すのも人間なので、せめてプラスマイナスゼロにしたい。いま自分の活動ではそこを最初に考えるようにしています。
串野:先ほどアトリエで作品を見てもらったように、以前は動物の素材をたくさん使っていたのですが、今の悩みはそこにあります。僕は動物や自然からインスピレーションを受けているものが多くてそれを"ファイナルデザイン"と呼んでいるのですが、動物のフォルムってすべての摂理においてその形にならざるを得ないもので、人の手を超えた宇宙スケールのデザインだと思うんです。常に最終形態なのですが、僕らが気づかないような進化が常に起こっていて、そこに魅了されるし感動する。なぜそれが美しいかは表現できないのですが、例えば、幼少期に星空を見上げて教えられた訳でもないのにきれいと思うのは、人のDNAの中に脈々と受け継がれてきた先人たちの記憶なんじゃないかと思っていて、動物の美しさもそれに近いんじゃないかと。でも人間って愚かだからそれで終わらずに自分のものにしたいとか身に付けたいと思ってしまう。僕にもその欲があるので、自分なりの解釈をしていろんな動物の毛皮や羽をたくさん使ってきたのですが、最近は自分の気持ち的に使えなくなってきてしまった。
先ほどの蚕のプロジェクトの前に、架空の動物の皮膚をつくる「φαντασία(ファンタジア)」というプロジェクトをやっていたのですが、これはアストロバイオロジー(宇宙生命学)の研究者と、架空動物の細胞をタンパク質の配列構造からつくることで、動物を殺さなくても毛皮が作れないかというチャレンジです。それも実在の動物ではなくペガサスのような架空動物にすることで夢やアートの文脈を持ってきている。
渡辺:串野さんはロマンやファンタジーに思いっきり飛ばしてから、プロダクトや現実世界に持ってくるアプローチが多いように感じます。しかもサイエンスやテクノロジーそのものは対極にあるもので、それとコラボレーションすることでより強く夢、ロマン、ファンタジーを拡張している。
串野:確かに一回突き抜けて向こう側まで行くと、それ以下のことは何でもできる。でもリアルからスタートすると次のステップが大変なので一番拡張したところから始めていますね。
土を裸足で感じて欲しい。
渡辺:公園での過ごし方や居場所の作り方で思うことはありますか?
串野:そうですね。土を裸足で感じて欲しいというのがあります。植物の上でもいいんですが、足から感じる情報ってすごく大きいと思う。地面に直接触れることの豊かさ。僕も幼少期ずっと裸足でしたし、イサム・ノグチも裸足で過ごしていたそうです。痛いと感じることでの危機回避能力でもいいですし、足からの学びは大切だと思います。
渡辺:裸足になれる機会は減っているかもしれませんね。
串野:街を歩いていると用途がなくて駐車場にしているのかなという場所を見かけますが、そこを市民が共有する畑にできたらすごくいいのにと思います。近所のご年配の方が管理をして、そこに学校帰りの小学生が来て土をいじったり裸足で歩いたりしながら一緒に作物をつくることができたらすごくいいんじゃないかと。ご近所の顔が見えるようになるし、まちのコミュニケーションが増えるし、食の安全性の確保もしやすかったり、食品ロスに対しての意識も高まると思います。
渡辺:そうですよね。行政がしっかり整備しているような大きな公園がよく利用されている一方で、街のポケットパーク的なところは子供が減るとそのまま誰にも使われない寂しい空間になっていたりもするので、そういう場所や使われていない私有地を市民参加で活用できる場にできるといいなと思っています。
特にシニアの方の知恵が伝承されるような場を作りたいとずっと思っていて、例えばですけど、バス停もそういう場所になり得るんじゃないかなと。バス停は幅広い年代の近辺に住む人が利用していて、かつバスの待ち時間があるんですよね。でも待っている間は無言で話しかけたりすることってほとんどない。例えば、事前にアプリなど何かで地域の人がゆるくでも繋がっていたり共有しているものがあれば、そこでのコミュニケーションや知恵の伝承みたいなことができるんじゃないかと思うんです。バスに乗ることの価値が変わるんじゃないかな。
串野:京都は回覧板の文化が残っていたりとか、地蔵盆で近所の人が集まってお菓子を配ったりすることがあるんですが、付きっきりの管理まではせずに、人との触れ合いって作れないのかなと思います。公園の役割ってやっぱりそういうことだと思うし、公園だと知らない子供とも遊んでたじゃないですか。管理が届く範囲の全部想定内じゃなく、未知との接点が大事だと思います。
渡辺:この前、雑談レベルで話していたのは、今ってクリニックとか調剤薬局が街にどんどん増えているじゃないですか。ニーズがあるし、ビルのオーナー側も飲食や小売店よりも安定的な家賃を見込めるのもあって、結果的にまちがメディカルヴィレッジ化してきている。住民からすると街の魅力が薄くなってしまったと悲観する声も聞かれるけど、それを逆手にとって、公園の中にクリニックや調剤薬局を誘致して、そこがカフェやレストラン、レンタル畑などを運営したらどうかと。ポイントはカフェ併設のクリニックではなく、全部公園の中にあるということ。誰にでも開かれた公園だからこそ世代を超えて人が集まり、滞在することでコミュニケーションが生まれやすい。クリニックや調剤薬局が行く必要のある場所から行きたい場所にシフトできる可能性を秘めている気がするんです。
串野:そうやってポジティブに捉え直すのはいいですね。そこにサウナを作るのはどうですか?球体のアート・サウナを作りたいと思っていて、サウナって昔の憩いの場所だったと思うんですよ。無防備な状態になった中で腹を割ってそこでしかできない会話があったと思うし。だから新しく作る場合も地元の人が置いてきぼりにならないことが大事だと思います。
渡辺:そのサウナ、球体っていうのがいいですね。円とか球って見知らぬ人同士のコミュニケーションを生みやすいというアフォーダンスがあると思います。この前、新宿御苑で横座りのベンチには座らないのに、木の周囲に円形に作られたベンチには色々なグループが座っていたのを思い出しました。
串野:そうですよね。なにか素敵なハプニングが起こりそうな気もしてきますね。
居心地のいい場所を探すのではなく、自分でつくる。
串野:公園ってこうやって改めて考えることがなかったのですが、すごく必要な場所だなって思いましたね。この近くにも公園がありますがすごく賑わっていて、生きてる公園って見てるだけで気持ちいいですよね。
渡辺:今日来る途中に2つ近所の公園を見てきたんですが、どちらも確かにすごく賑わっていてびっくりしました。久しぶりにまちの児童公園がこんなに賑わっているのを見たので。近くの公園に行くことはありますか?
串野:僕は京都御所によく行きます。できれば毎日行きたいぐらいで、実はいま育てているんです。
渡辺:育てている?
串野:厳密にいうと育てるって表現はおかしいのですが、御所の中に花梨の実が落ちていたんですね。腐敗するのかなと思って見ていたのですが、通る度に硬化していってブロンズみたいな質感になってきたんです。最初は放置していたんですが、いくつかあったものが車に潰されてしまったので、そのうち1つを移動させてそれが雨とかで経年変化していく様子を観察しています。最初は虫がついていたものが乾燥して虫が離れて、色が深くなって、痩せていきながら硬くなって、どんどん鉄というかブロンズっぽい感じに変化していくんです。これがさらに何年か経つとどうなるのかなと。
渡辺:おもしろい公園の楽しみ方ですね。
串野:もうひとつ公園ではないですが、近所に柊家さんという歴史ある旅館があって、川端康成が定宿にしていた部屋に、ここ数年誕生日に1人で泊まるようにしています。そこの坪庭もとても素敵で、川端康成も同じ景色を見ていたのかなとか想像しながら今年も頑張るぞと静かに決起しています。自分も同じように歳を重ねながら旅館の人と思い出を作っていきたいなと考えていて、女将さんや毎年ついてくれる中居さんとお互いの変化を共有しながら、関係性を築いていける居場所にしたいなと、自分の老後の楽しみとして今から育てているようなところがあるんです。
渡辺:なるほど。居心地の良い場所を探すのではなく、自分でそういう場所を作りだしているんですね。たしかに場所を与えられたまま享受するのではなく、能動的につくらないと本当の居心地は生まれないのかもしれない。あと、串野さんは時がテーマになっているのかもしれないですね。先の自分をよく見ている気がします。計画して段取りしてというのではなく、ポンと先に自分をおいてそこに向かっていく感じ。作品作りも近いのかなと感じました。一回、未来に飛ばしてみてそこに向かって色々な角度から近づいていくような。
串野:確かに具体的にこれって逆算しているわけではないんですけど、漠然とそこに向けての準備みたいなものはあるかもしれないですね。意識はしているというか。これからどんな人生になるかは僕もわかりませんが、先を見てやっていきたいと思っています。
(Text by Hideaki WATANABE)