見出し画像

ヴァースノベルとは何か。お知らせ編!

やんぐはうす-ヴァースノベル研究会はこの度雑誌『改行』を発行します!
つきましては編集長がXでいろいろ書いたのだが、どうにもバラバラになって読めない説ある!というわけで下にまとめておきます。

どうも!『改行』編集長の岸田こと東堤です。この度、やんぐはうす-ヴァース・ノベル研究会はその研究成果として『改行』を発刊します!「ヴァース・ノベル」とは何なのか。詳細な説明や理論立ては同人誌に書いた岸田のエッセイを読んで欲しいのですが、ここではそこで書かなかった方法で説明します。

僕らの研究会の「ヴァース・ノベル」は、2022年に書肆侃侃房から出版された『赤の自伝』という本から来ています。「ヴァース・ノベル」というとまだ日本では馴染みがないかもしれませんが、国外ではYAの分野などで盛んで、それは一つのジャンルとして名指されるくらいには作品の堆積があります。

「ヴァース・ノベル」とは何か、まあ説明すると本当は色々あるんですが、とにかく今はそれはおいといて、その『赤の自伝』の説明に付されたように「詩」と「小説」のハイブリッド形式ということにしておきましょう。

最初に僕がこの「ヴァース・ノベル」という言葉を見つけたのは去年の10月ごろで、『赤の自伝』を本屋で見つけたときです。すぐにその説明書きを見てピーンときました。というのも、僕は詩と小説の両方やっていて、いろいろとその関係に悩んでいたのですが、お、これは何かあるぞと思ったわけです。

それでそのままレジに持っていって持ち前の勢いですぐにSNSでヴァースノベル研究会を開くので研究員募集!と投稿しました。すぐに僕は言葉の学校で友人になっていた藤野さん@fujiponsai 原麻理子さん@haramarikkoに声をかけました。

それからさらにゲンロンSF創作講座でやはり友人になっていた猿場つかささん@SarubaTsukasa、田場狩さん@TabaKari99にも声をかけました。岸田は友人にも恵まれています。四人ともなし崩し的に研究員になってくれました。ありがとう!

それからやはりSF創作講座で友人だった、渡邉清文さん@TricolorGroupJPから自分も研究したいと参加申し出がありました。やったね。それからいろいろあって牧野大寧さん@maquiwo、そしてやんぐはうす名古屋支部(と岸田が勝手に決めている)十三不塔さん@hridayamも参加してくれることになりました。

渡邉清文さんはもともとヴァースノベル感のある?「V系SF」というものに取り組まれていました(というか、この「V系SF」は確かSF創作講座の6期の初回課題で岸田が変な課題作を提出したら、それをダールグレンラジオでこんなぬるいのじゃだめだ!と叱られて始まったはず。因果応報!)。

研究会とはいったものの、実態としては課題図書を選んで月に一度の読書会というものでしたが、もともと研究をやるならどこかで成果を出さないと考えていたので、こうして同人誌として発刊ということにこうしてあいなったわけです。

「ヴァース・ノベル」には、大きな可能性があります。それはなにも「詩」と「小説」をアップグレードできるというだけの話ではありません。「ヴァース・ノベル」だけで書店に独自の棚ができるほどの可能性を僕らは感じています。それについてちょっとお話しさせてください。

現代では今や「文学」はとても「不利」なメディアです。今の時代では、もはや映画に限らずあらゆる直接的な視覚メディアが氾濫しているし、その流通としてネットがもはや弊害も含めて十分過ぎるほどに発達しています。

そういうなかで、文学を行う僕らはそもそもなぜ自分が文学なのか。つまり言ってしまえばなぜ自分がわざわざ「言語表現」なのかということを自らに問わざるを得ません。

小説は潜在的な面ではともかく、素朴な意味においては視覚メディアに対して、情報量では太刀打ちできません。しかもその効率性もあまり良くありません。端的にいうと小説は今や「重い」メディアです。

別に文学に限らないと思いますが、現代では情報の伝達効率がいい視覚メディアとの対決と、その増加に伴うますますの効率性がいろいろな面で求められます。そういう意味では「小説」という「重い」メディアはちょっと「遅い」というわけです。

もちろん、それは「小説」の良いところでもある。なんだったらそれこそが本質であるとすら言えるものです。効率性ばかりが重用される時代だからこそ、むしろ簡単に伝達できてしまわないところに「小説」の良さはあるのだということもできます。文学は必ずしも開かれる必要はない。それはその通りです。

でも、やっぱり僕らはそうは思わない。

どんなにひねたことを言っていたってなんだかんだいって僕らのような文芸が好きな人間はどうしようもなく「文学」を信じたいと思っているし、それは僕らが生活や世界や人間のなかで文学は生きるうえでの糧になりうるとやっぱり感じているはずだからです。

そうであるならば、やはり僕らは文学を遍く開いていかなくてはならない。なぜなら、僕らが文学に世界のなかで何か大事なものがあると信じている。そうであるなら、文学をできるだけ共有して広げていくことは文学自身の倫理に関わるアイデンティティだからです。

文学が文学の内に籠ることは文学が自ずから自身を裏切ってしまうことになるからです。

言葉というものが絶対に誰か他のもう一人という他者の存在において定義されるなら、言語表現は必ず開かれることが定義上の要請になるはずです。心配な人にはこう言っても良いです。誰かを常に目指し続けるということが既存の共同体の外に出る唯一の方法でもある。

話がだんだんそれて来ましたが、そういうなかで「文学」を今以上に開いて、そして明日に繋げるにはどうしたらいいか。そういう問いのなかで僕らが出す解答の一つが「ヴァース・ノベル」です。

「ヴァース・ノベル」はまだ決めつけるわけにはいきませんが、「小説」に比べれば「軽い」メディアです。それはいわゆる散文表現ではなくて、改行はより自由で自在です。少なくとも小説よりも読みやすいということは確かです。その軽やかさな改行には新しい形式での「文学」の可能性が詰まっています。

そしてそこには同時に文学の最前衛たる「詩」を繰り込むことができます。ここで「ヴァース・ノベル」は「文学」の課題を最良のかたちで達成することができます。

これが僕らが「ヴァース・ノベル」が文学の可能性になり得るという理由です。僕たちは「ヴァース・ノベル」とひとまず名指す形式で、もう一度文学を問い直します。

それは小説という散文表現においても、詩という表現においても、新しく自らを省みる契機にもなり得るはずです。そして何よりも僕たちはヴァース・ノベルを自分たちではない誰かに届ける新しい文学のメディアにしたい。

というわけで、以上が『改行』についての編集長からの補足説明でした。明日からは執筆者の紹介などをやっていきます~。(編集長は「無」だが、他の研究員は何気に全員豪華だぞ!)。

みなさんぜひ次回の文フリではよろしくお願いします。もしよろしかったら、お友達に読んでもらったり、自分でもヴァース・ノベルを実践してもらえると嬉しいです! では、今日のところはここまで。未来で待ってます~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?