焼け跡ベンチャーから世界へ ダントツのシェア、幅広い用途 日本のモノづくり力を見せるYKK
OEMも含め金額シェアは約40%
創業者・吉田忠雄の約束
YCC、YQQ、SBS―これは無線の呼び掛けコールでも、地方テレビ局の略称でもない。中国に大手だけでも数十社あるというファスナー(ジッパー)メーカーの社名であり、ブランド名である。互いに混同しやすいにも関わらず、皆、似たようなアルファベット3文字を用いているのは他でもない。彼らが追い付き、追い越せと常にライバル視している日本企業に、あわよくば、自らもあやかりたいとの願いを込めているからだ。ニッポンのモノづくりが総崩れとなる中でも、中国ファスナーメーカーが羨望を隠さないその会社とは、言うまでもなく世界トップのYKKである。
金額ベースのシェアは約40%、数量ベースでも中国製を押さえて20%を誇る。世界中の女性が憧れるフランスやイタリアのスーパーブランドの鞄や財布から、季節ごとに移り替わるファストファッションのドレスやスカートに至るまで、これらに使われているファスナーのおよそ5点に1点はYKK製だ。YKKと刻印されてなくてもニセモノと早とちりしてはいけない。YKKはアパレル各社にぴったりと寄り添い、デザインの段階から開発に参画し、顧客のブランド戦略に従ってOEM(納入先商標による受託製造)を行うことも当
たり前だからだ。
現在、同社のファスナーはイヌイットが居住する北極圏からアフリカの灼熱の砂漠の中のオアシス、果ては宇宙服の一部を構成して大気圏外にまで活躍の場を広げている。音楽を、劇場やリビングの外に自由に持ち出す働きをしたソニーの「ウォークマン」と似て、世界中の人々が日々感じていたボタンやホック、紐締めといった煩わしさから解放した類まれな日本製品と言っても過言ではないだろう。そして奇しくも、YKKもソニーと同様、敗戦直後の“焼け跡ベンチャー”からユニークな経営を続けて、やがて世界に羽ばたいた。
YKKという会社を語る時、欠かせないのが創業者・吉田忠雄の存在感だ。北陸の片隅の富山県魚津市に三男一女の末っ子として生まれた忠雄は、1928年、20歳の時に上京し、中国陶器を輸入販売する貿易会社で働き出す。この会社は為替取引の失敗で倒産の憂き目に遭うが、たまたま副業で、国産ファスナーの卸しを手掛けていた。債権整理でこのファスナーの半製品の山を目の当たりにした忠雄は、これを売り切ろうと34年にサンエス商会を日本橋に立ち上げた。これがYKKの前身で、後に「ファスナー王」と呼ばれる忠雄の転機となった。