第2の失敗は後継者に三木武夫を選んだこと 「対で勝負」も巧みな芸者に敗れた田中角栄(下)
「一度退くが、もう一回、総理をやる。
このままおめおめとは引き下がらない」
今も隠れた人気を誇る田中角栄元首相は、50年前の1972年7月に政権の座に到達した。だが、月刊『文藝春秋』74年11月号(10月発売)が掲載した「田中角栄研究」の2本の記事でとどめを刺され、74年11月26日に退陣を表明する。在任は2年5カ月で終わった。 5日後の12月1日、自民党副総裁だった椎名悦三郎が党本部の総裁室で、後継総裁候補の福田赳夫(後に首相)、三木武夫(同)、大平正芳(同)、中曽根康弘(同)の4人を前に、事前に用意したメモを読み上げた。
「私は新総裁には、この際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます」
後継総裁指名の裁定案で、「椎名裁定」と呼ばれた。椎名は「返事を待っている」と言い残して隣の副総裁室に移った。
田中は政権の末期、退陣を決意する前に一度、解散・総選挙による中央突破作戦を思い描いた。10月28日から11月8日までオーストラリアなど3カ国を歴訪した。帰国直後の解散も考え、出発前、女性秘書の佐藤昭に「選挙の準備を」と指示して出掛けたが、戻った田中は「解散は止めにした。やっぱりおれが辞めないと、収まらないと思う」と佐藤に告げた。
同時にもう一言、言い添えた。