大園橋の運命
テレビニュースを見ていた夫が、突然大きな声で言った。
「大園橋が出た」
「あら、そう!」
夕飯の支度中だった私は、テレビに駆け寄り『あれはいつ頃だったかな』と思った。
およそ1年半前のある日のこと。
「新聞に、大隅史談会の現地研修会の参加募集記事が掲載されていたから行かないか?」と夫に誘われた。
「私はいいかな、興味がないから一人で行って来て」
「故郷の歴史だよ、貴女のふるさとの。費用は、お弁当代が一人500円のみ」
「仕方がない、お付き合いしましょう」
いつに無く熱心だったので私も参加することにした。
令和3年11月21日にマイカーでフェリーを乗り継ぎ、2時間近くかけて現地に着いたのは、午前9時を過ぎていた。既に30人くらいの方々が集まり、いかにもシニア層向けのイベントの様相を呈していた。
受付終了間際に、1台の黒いワゴン車がスーッと駐車場に入って来た。30歳代らしき男性が一人、車から降りてこられた。
『肩に立派なカメラを下げて、若いのに、なんて勉強熱心な方だろう』と思った。
晴天で芒が秋風に揺れ、爽やかな一日になりそうな予感がした。しかし、あくまでもお付き合いなので心が弾むわけでもなく、只々夫の後ろをついて行った。受付を済ませ、駐車場の道路向かいの目と鼻の先にある、大園橋という石橋の眼鏡橋へ小走りで向かった。
周りは、国道沿いの両側に広がる田園地帯で、水深は浅いが幅25m程の肝付川が流れている。
そこには現在活躍している現代的な橋と、そこから少し離れた所に役目を終えた石橋がある。その石橋は、明治35年頃架けられたようで「めがね橋」と呼ばれ地域で大切に管理されてきた。
はじめに、史談会の会長さんの挨拶や大園橋の説明を聞いた。
その日の川は、穏やかで水は透き通り水面は優しく揺れていた。
しかし、3年前の豪雨により、近辺の住宅に甚大な被害を及ぼした川でもある。
近年は、水害対策のため鹿屋市の文化財である大園橋を市が撤去する方針を示し、解体の危機に瀕していた。
ベテランの石工職人の男性が、石橋伝統技術の素晴らしさや思いなどを語ってくださった。
それまで静かにしていた私は、その話に感動し目頭が熱くなり、急に探究心が頭を擡げた。
「川の氾濫は、本当に眼鏡橋だけの問題なんでしょうか」歩きながら会長さんに質問をしてみた。
「そうなんですよ。以前、専門家の大学教授が、この場所に来て調査して下さったんですよ」
近代的な橋の高さや護岸工事、蛇行の問題など様々な要因があり、眼鏡橋だけの影響では無いようだった。
「皆んなで石橋保存の署名運動をしましょう」あるご婦人が会長さんに話されていた。
「いや、時期尚早でしょう」
「こんな低い土地の田園地帯に、家の建築許可を出す行政にも責任がある」とある男性の呟きも耳に入った。
なるほど、難しい問題だと思った。
それから、めがね橋を離れて全員が歩いて次の場所に行くことになっていた。
受付前に見かけた30歳代らしき男性は、手慣れた感じで四方八方から写真を撮られていた。その後一人、足早に駐車場へ行き車で帰って行かれた。もしかすると新聞記者だったかもしれない。
実家から3キロ程離れた近代的な大園橋は、中学校の通学路の途中にあった。めがね橋の方は廃道になり風景の一部として佇んでいた。もし撤去されたら寂しいに違いない。
あれからの動向が気になっていたが、今日の夕方のテレビニュースで大園橋の保存が決定したことを知った。
この吉報に、先人の叡智が受け継がれると安堵した。そして、石工職人の方、史談会の方々、永く守ってこられた住民の方々が喜んで居られることだろうと感慨深かった。