大隅史談会番外編 選挙カー
瀬戸山神社と五代寺跡(瀬戸山公園)の研修を終えて、またもや番外編を記すことにした。
「また、noteに記事を出そうかなぁ、拙い経験なんだけど」と呟いてみた。
「出しなさい、出しなさい、濃い人生を歩んでいるねー」と夫が笑って言った。
瀬戸山神社の参道の両脇には、人家が沢山あり、温泉も1件ある。この辺りは『寺街道』と呼ばれている。
50年ほど前の小学生の頃、忙しい父に代わり振興会(町内会)の書類を自転車に積んで、班長さんに配ったことがある。
その時、寺街道辺りを通りながら、何故、時代劇に出てくるような不思議な地名なんだろうと思った。
地元の大人は、大抵『てらけど』と呼んでいた。
時は過ぎ成人をした頃、父の3期目の市議会議員選挙があった。
当時の地方選挙は2週間の長丁場だった。選挙運動が14日目に突入した最終日に、仕事が休みだった私も、選挙カーでウグイス嬢をすることになっていた。
支援者に見送られ、気合いを入れて最後のお願いに出発した。ゆっくり走る車の後部座席で、見慣れた風景の中を連呼した。
緩やかな坂を登り切ると、畑しか見えない視界が広がった。まだ日は高く青空で、晴れ晴れとした気分になった。
『誰もいないから、マイクの出番が無い』と思っていると、10メートルほど離れた畑で、麦わら帽子を被った人を発見した。
すかさず「こちらは、市議会議員候補‥」と、その人に向かって言っている途中で「あんた、案山子じゃが」(あれは、案山子だぞ)と、父が真顔で教えてくれた。若干恥ずかしかったものの、内心おかしくもあった。もしかすると運動員の運転手さんも面白かったかもしれない。
官公庁の並ぶ街中でマイクを握っていると、茶髪で背の高い痩せ型の青年が歩いていた。その後ろ姿に向かって「こちらはー」と言った途端に彼が振り向いて「うるせぇがー」と怒鳴った。
一瞬ビクッとして黙ったが、何事も無かったように平然としていた。忘れもしない営林署前の歩道だった。
父は、車の助手席に座っていても背筋を伸ばし、両手を上げ下げし、道行く人やすれ違う車中の人に挨拶をしていた。
かつて皇居で馬に跨がっていた姿や二重橋で直立不動で立っていた姿を想い、さすが元近衛兵だと今更ながら感服した。
連呼していると、父の友人が入院されている病院が見えてきた。病室で聞いているから、ゆっくり車を走らせてと要望があった。他の入院患者の方々に配慮し、少しボリュームを落とし『参りました』と言う気持ちで病院を見上げながら、父の名前を声にした。
その日の夕方は、寺街道から自宅に帰るコースで、瀬戸山神社に続く参道の両脇に多くの方々が立って応援をしてくださった。
選挙カーから降りた父は、その中を笑顔で頭を下げながら歩いた。
歩くようにゆっくり進む車窓から沿道の皆さんに向かって「只今、父、〇〇が地元の皆様に歩きながらご挨拶をしております。日頃のご支援に、心から感謝申し上げます。これからも地元発展のため、粉骨砕身、頑張って参りますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます」と、誠心誠意お願いをした。
父に手を振り、拍手をして答えてくださったことに、感謝の想いで胸が熱くなり忘れられない最終日になった。
そうそう無いシチュエーションではないだろか、こうして思い出しても涙が滲んでくる。
その後、自宅に帰り着くと最終日ということもあり、沢山の方々が出迎えてくださった。
「地元の皆様には本当にお世話になっております。父のために連日の応援、誠にありがとうございます。心からお礼を申し上げます」精一杯の感謝の気持ちを込めて最後の挨拶をした。
選挙カーから降りる私を見て「蛙の子は蛙だね」と、あるご婦人の声が耳に入り嬉しかった。
母は朝から晩まで、多くの人と接し家を守っていた。その涙ぐましい内助の功と地元の方々のお陰で、その年も父は当選を果たした。
令和3年の大隅史談会の現地研修会で、この地域に五代寺という大きなお寺があり、宿場町で栄たことを知った。
寺街道の地名の謂れはそういうことだったのか、ようやく謎が解けた。