【短編】 登山のご縁#2(感染症の影響)
恵麻は、最近の父に覇気が感じられないことが気になっていた。
それから暫くして、父の経営する老舗旅館が3年近いコロロ騒動で客足が遠退き、廃業に追い込まれた。
そして恵麻は、想像だにしない安値で売却することを知った。彼女は平穏な日々が音を立てて崩れていくようで、茫然自失になった。
老舗旅館が安く買い叩かれ中国企業の手に渡ってしまうのは、今の日本の悲しい現状だった。
苦渋の決断をした父は、残務処理を済ませ母と離婚をし、晩秋の候に家を出て愛人のもとへ行ってしまった。
恵麻の兄は、東京のIT企業で働き仕事は安定していた。兄の誕生日は11月10日で、6年後の同じ日に恵麻が生まれた。かねてから妹想いの兄は、妹の進学を心配し頻繁に実家に連絡をするようになった。
残された家族は、これからの生活の不安ばかりが募った。幸い兄の生活は安定していたが、兄に迷惑をかけないように、恵麻は、高校を中退して働く決意を固めていた。
彼女の通う高校は、中高一貫のミッションスクールだった。
恵麻が退学の意思を伝えようとシスターの部屋を訪ねると、神妙な面持ちの彼女に「何かありましたか」とシスターは優しい眼差しだった。恵麻は補助椅子に腰掛けるよう促され、二人は差し向かいで座った。
恵麻が一部始終を話し終えると、シスターに「放課後に私の仕事の補佐をしてくれませか」と言われた。
「その代わりに私が授業料を支払いますから、お金を返すことは無用ですからね」シスターは、項垂れ啜り泣く恵麻の肩にそっと右手を置いた。
一方、母の洋子は憔悴し不安な毎日を送っていたが、ある夜、ふと昔の韓国岳登山の事を思い出した。
「確か、和箪笥の小引き出しにある筈だ」そう呟きながら和室の灯りをつけた。
和箪笥の扉を開け、小引き出しに仕舞ってある幾つかの書類をカサカサと両手でかき分け、底から一枚の名刺を取り出した。嫁入り道具と一緒に、お守りとして持って来た物だった。
その夜は枕元にその名刺を置き安堵し、久しぶりに深い眠りに落ちた。
つづく