リゾバと原点回帰
リゾートバイト(以下リゾバ)っていつから社会通念として一般普及されるようになったんだろう。うちのパソコンキーで「りぞば」って一発変換しないし。
で、考えてみたらわたしもかれこれ30年ほど前にやったことあったわ。リ・ゾ・バ。しかもそれが現在永住地と決意している沖縄県宮古島だ。「忘れられない旅」どころの話ではない、第2の人生の始まりと一生の終わりがここにあると言っても過言ではない話。きっかけはアルバイト情報誌フロムAに載っていた住み込みバイトの募集記事。(表写真は当時の旧宮古島空港)
交通は当時、羽田空港から直行便が一日朝8:00台に一便のみ運行していて、その地理的彼方さを歌にたとえるなら、上野発の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中~♪を彷彿させるものがあった時代。つーか、わたしは宮古島がどこにあるのかすら知らなかった。だから地図で沖縄本島周辺を指をなぞらえながら確認し、そこのせんべいカスのように細かく散らばったいくつかの離島の中から宮古島を発見!、旅情報誌「るるぶ」で現地情報を入手した。フレームいっぱいのサトウキビ畑、石垣に囲まれた朽ちそうな平家、舗装されていない道。ロケーションは青、白、緑、隙間に石灰色。
もはや異言語となろう異文化の遠いとおいそんな土地へ行かざるを得ない理由は自棄を起こしたからではなくて原点回帰したかったからだと思う。
写真から察するにコンビニも商店もちょっとした日用品を買いに行くのも望み薄な宮古島への意気込みとして、わたしは洗濯粉洗剤をビニール袋にキュッと詰め、片道チケットのみ購入し降り立った。
今から思うとあの時わたしは鬱(病)だった。暗いが。摂食障害を繰り返し体重が30キロ台まで落ち、親友に結婚式の友人代表スピーチを頼まれるも出席不可能な状態で断らざるを得ず、このままでいいわけないと身のやり場を探していた。
そんな時だ。
そういうことって起きる。何気なくめくったページに目がとまり、これだ!と合点がいくってこと。あの日、わたしにとってのそれが50㎠にも満たない一辺の記事だった。その後の人生の礎を築いたわたしのアンダー50㎠。麗しの。
初来島した宮古島はわたしの不安をよそに生活用品に溢れた島だった。市内の繁華街にあるバイト先の寮の近くには購買店もあるし、通常生活するための必需品は徒歩圏内で賄えた。ほぼ無いに等しいのは娯楽施設商業施設。皆無なのが性風俗(周知の限り)、高校卒業後の進学校。貧乏人子だくさんの島で、高卒後の島人の未来はまるで風任せのしゃぼん玉。今となっちゃ人頭税以来の厳しい現実ここにあり、ってなとこだ。
島に滞在してひと月経つ頃には、自分の置かれている状況を冷静に観察しつつ未来を俯瞰して考察できるまで心が回復してきた。
まず最初に思い浮かんだのは、この島で水商売以外に若い女が何をして生計を立てられるのか、という難点。若い女、というのはひとつの記号でしかなく若い男であろうと初老の男女であろうと資産家でもない限り宮古島で生きて行くという座標上に於いては平等条件ではあるが。その若い女わたしの見たところ、はっきり言って魅力的と呼べる就業先(労働賃金が発生し生活の糧となる器)がない。なかったね。半径10キロ圏内しか島を知らないけれど。裏を返せばこの島で生きるためには自営できる仕事というものを確立或いはどっかから調達しない限り魅力的に生きられないというわけだ。なんてことだ。答えを探しに家を出たのにとおく遥々たどり着いた入り口が家の扉だなんて。青い鳥だよ、おっかさん。
自立するためにどこでどのようなスキルを養い、実力を磨き経験を積むのか問題は、古今東西世界共通なんでした。
時は流れ2024年現在。リゾバが流行っているんだろうか。インターネットが普及した影響でそういう情報が氾濫しているだけだろうか。
交通の便が激増した現代、固唾をのんで覚悟を決めるほど移動への抵抗はなくなったと同時に、決意なんてものはついでのようにトランクと一緒にひょいっと荷物棚に押し上げてしまえる。それって身軽なのか無頓着か。
宮古島は潰しが利かない。合う合わない分れる理由はそこにある。原点回帰に。
Emeru