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何も残らなくていい

1992年、骨髄バンクのドナー登録が開始されるとすぐ、夫とともに登録した。夫はたぶん私の勢いに押されて一緒に登録してくれたのだと思うが、適合の確率が高かったのは夫のほうらしかった。

いまどのようなシステムなのか知らないが、以前はイメージで言えば、大きな網でざっと適合しそうな人を選び、だんだん細かい網目にして最後の網目を通った人が適合者になる、という感じだった。
そして、割と大きな網目の段階で「あなたに適合の可能性があります」というお知らせがくるのだが、私には一通も来なかったそのお知らせが、夫には3回来た。
いずれもその一度きりで、次の網を通らなかったからなのか、マッチングが終わったのか知らされない。
初めてそのお知らせが来たときは「ほんとに来るんだ」と結構ドキドキして待ったが、3通目ともなると「風邪ひかないようにしなきゃ」くらいの落ち着いた受け止め方になった。

そのドナー登録も、年齢制限により数年前にお役御免となった。
一度もお呼びはかからなかったが、残念なような、少しホッとするような気持だった。

自分が死んだとき、もし使える臓器があったら余すところなく役に立ててほしい、というのは、家族全員に「もうわかったから言わなくてもいい」と言われるくらいには何度も伝えてある。
本当は献体してもいいとも思っているのだが、献体すると3年くらい遺体が帰ってこないので、それは残されたほうの気持ちとしてどうなのか、少し酷なような気もして躊躇っている。
でも、お役に立てる臓器がなければ、せめて遺体くらいは後学の、もしくは向学ために奉仕してもいいのではないか、というのは考えている。

私自身はお墓も要らないし、合祀でも散骨でもなんでもいい。
死んだ後のことは全部残された人の手間の一部だから、残された人がいいと思う方法で始末をつけてくれればいいと思う。
でも、私の一部がもし誰かの役に立つのなら、それは全力で叶えてほしい。
「もうわかったから」と言われようと、それだけは繰り返し伝えている。




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