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リアリティ

noteに映画のことを書くといつも悪口になるけど、今回もそう。
ということで、ご覧になっていない方は注意(ネタばれあり)

今回観たのは、

映画館で観ようと思っていたのだけど時間がとれなくてアマプラで観た。
結果的にアマプラでよかった。
というか、観なくてもよかった。

よかった点がないわけではなく、これまでのゴジラ映画のお約束というか様式美を踏襲していたのはとてもよかった。
・水爆実験によって誕生した(と推測される)
・海から現れて大戸島を襲う
・「ゴジラ」という名前がすでについている
・東京都心に向かう
・線路に侵入し、電車を掴む
・圧倒的破壊と絶望の描写
・突拍子もない作戦立案と、アクロバティックな解決策
・大団円と「to be continued」
これらがなければゴジラ映画とは呼べないわけで(わたし的に)、お約束を外さないでいてくれて、それは素直によかったと思う。

今回、「ゴジラ-1.0」を観ていて思ったのは、リアリティってなんだろう、ということ。
特に、ゴジラのような完全に荒唐無稽なフィクション映画だと、どこまでリアルであるべきなのか、というのはいつも気にかかる。

たとえ舞台が戦後日本と決まっていたところで、なにもかも戦後日本を正確に、詳細に描写しなければならない、とまでは思わない。
ゴジラのいる戦後日本は、現実の昭和20年代とは違う世界線なのだ、と言い切るならそれはそれで一向にかまわない。

ただ、私たちと地続きの昭和20年代が舞台であるなら、それが焼け野原の日本であるなら、「きれいな」主人公はあり得ない、と私は思う。
いつもさっぱりとひげが剃られていて、毎日床屋に行っているかのような清潔で整えられた髪。
日々の生活がままならないときも、PTSDのような症状で苦しんでいるときも、目に生気が宿っていて、なんというか、疲弊していないし、苦悩や困り感がない。

怪獣映画にそういうリアリティは必要ないといえばそう。
でも、私は主人公の身なりのあまりの現実感のなさに冷めてしまって、全く話に入り込めなかった。

話の展開が読めすぎるのも、気に入らなかった。
あーたぶんこうなりますよね、という伏線ともいえない伏線をわかりやすく置いてしまう安易さ。
息をもつかせぬサスペンスフルな展開は求めていない。
予定調和は確かにゴジラの様式美のひとつかもしれない。
でも、脱出装置も、電報も、全てが安直でわかりやすすぎた。

ゴジラを舞台装置の一つのように扱うのも不満だ。
ゴジラはゴジラであって、人間ドラマの書割ではないのだ。
今回のゴジラは単なる背景だった。
単に「困った未知なる生物」だった。
それに勇敢に立ち向かう民間人。
安っぽい人間ドラマ、いる?
加えて、「泣けた」という感想。
どこで泣いたの?と聞きたい。
いや、「泣ける」という言葉がもはやミーム化しているので意味どおりではないのは承知で、でも、である。
泣く要素、あった?
ひとっっっっっっっつもなかったけど。

最後に。
敬礼に関していろいろ意見があるようだけど、私はあれはあれで(好きではないけど)いいんじゃないの?派だ。
むしろ、何に対しての敬礼なのかは観客に委ねられている、というコンテキストが共有されないということに若干引いている。
全てを余すところなく説明されないと鑑賞が終わらない民が増えたね。

もうひとつ最後に、お口直しとして。
安藤サクラは素晴らしかった。
彼女がいる安心感ったらないね。どの映画でもそう。
でも、というか、だからこそ、というか、映画自体の残念さが際立ったのかもしれない(口直しになってない)



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