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New Frontier Vol.1 阿尾茂毅


第一回目は、長年映画やCMの世界でサウンドエンジニアとして第一線で活躍し、2018年にはユニバーサル・ミュージックからアーティストとして、62歳でCDデビューをした阿尾茂毅(あおしげたけ)さんに話を伺った。先ずは、阿尾茂毅という人がどんな人物なのか、じっくりと読んで知ってもらいたい。

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ーカウンターカルチャーの洗礼を受けた少年期ー

富山県で生まれ、幼少期に東京へ移り住み、少年時代を東京・荻窪で過ごした阿尾茂毅。小学生の頃からラジオの深夜放送を聴きまくっていたという。そんな時に、ラジオから聞こえてきたのが、吉田拓郎の『今日まで、そして明日から』と(※1)新宿西口フォークゲリラの話題だった。
(※は文末に解説)

「初めて吉田拓郎さんの歌を聞いた時に、子供心に何か感じたんですね。しかも、新宿西口に行くと何か面白いことをやっているらしいと深夜放送で聞いて、すぐに行きました。ただ、行ってみるとあまりに人が多すぎて、音が聞こえる近くまでは行ったんだけど、フォークゲリラを実際に見たという記憶はないんですよ。子供だったし、多分ビビって近寄れなかったのかな」

数千人の人が集まり反戦を歌い、最後には機動隊が出動するまでの『事件』となった新宿西口フォークゲリラ。小学生で強烈なカウンターカルチャーと出会った阿尾は、中学生になると自然とギターを弾くようになる。

「中学1年生でギターを買ってもらって弾き始めるんだけど、全く上手くならなくて。本格的にギターを弾き始めるのは高校生になってからなんです。当時、陸上部に所属していたんだけど、陸上部の先輩たちがみんなギターを弾くんですよ。昼休みや、合宿の時とかに。変わった陸上部だと思うけど、面白い高校だったんです。そんな中、高校2年生の時に、同じ陸上部のやつと何か一緒にやろうよって話になって、2人で音楽を始めたんです」

ー山下達郎に憧れてー

高校生で音楽活動を始め、大学時代へと続いていった。そして大学生の時に出会った山下達郎のアルバムに影響を受けて、レコーディングエンジニアの道を目指そうとする。

「でも、僕、本当は大学卒業後は博報堂に入る予定だったんですよ。父親の関係もあり、半ば強制的に入れられるという感じではあったんですけど、これからは広告の時代だと。クリエイティブディレクターになったらいいと父親は言っていましたね。今、思うと先見の明はあったんだと思います。ただ、大学4年の時に、山下達郎さんの『GO AHEAD!』っていうアルバムを聴いて、急にレコーディングミキサーをやってみたいと思うようになって、そこから1年間、夜学で(※2)音響技術専門学院に通ったんです。もう、父親とは大喧嘩ですよ。後に(※3)音響ハウスに入社が決まった時にも、なんでお前は住宅メーカーに行くんだ!って(笑) 

ー音響ハウス時代ー

「音響ハウスに行こうと思ったのは、とにかく山下達郎さんに会いたかったから(笑)それだけでした。当時、すでに音響ハウスは高嶺の花で、一応、他の会社も受けて徳間音工って会社に受かっていたんですけど、やっぱりどうしても音響ハウスに行きたいと思っていて。実は、知り合いの紹介で当時の社長と直接会うチャンスがあったんです。向こうは面接のつもりで会ってくれていたんですけど、僕はただ会うだけだからと面接とも思ってなくて、すごい軽い調子で行ったら、お前は絶対にダメだ!と怒られちゃって。ああ、もうダメだなと(笑)でも、諦めきれなくて、当時入社試験があったんですけど、試験だけでも受けさせてください。って、なんとか試験を受けたらたまたま成績が良くて受かっちゃったんです」

ークロスロードー

「入社試験の後に面接があって。で、その面接を受ける前に誰かに入れ知恵されたんですよ。もちろん、自分では音楽の方に行きたかったんですけど、当時、音響ハウスでは『ダビング』と呼んでいたフィルムの方の仕事があって、面接でそっちに行きたいって言えば絶対に受かるからって。僕は何も知らないから、受かりたい一心で『ダビングに行きたいです』って言っちゃったんですよね(笑)後から考えると、ここが相当な人生の分かれ道というか、クロスロードでしたね。まんまと嵌められた感はあるけど、結果的には河瀬直美さんの映画の仕事をやるようになったりしたので、よかったんですけど。そっちが合ってたんですね」

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音響ハウス時代にはほとんど家にも帰らず、スタジオに住みつくように仕事と『実験』という名目の自身のレコーディングに明け暮れたという。

「夜仕事が終わって、スタジオが空いているといろいろと試したくなるなるんですよね。ミキサーとか、どうやって録音するのかとか。でも1人じゃ試せないから、職場の後輩や先輩まで使って、演奏するヤツがいれば、そいつに演奏させて自分が録音したり。そんなことをしていたら、結局毎晩いるわけですよ(笑)もちろん、自分の曲も録りまくって音源はアルバム1枚分くらいは軽くありますね。音響ハウスを辞める時に、お前はスタジオを千時間使った。って言われましたから(笑)」

ークラブミュージックとの出会いー

2018年に発売した阿尾のファーストアルバム『Starting Line』は、阿尾自身が子供の頃に出会った音楽に原点回帰した、どこか懐かしい匂いのする軽快なシティポップサウンドだが、実は、クラブミュージックに傾倒していた時期がある。阿尾茂毅個人名義の活動の他に、公私共にパートナーである靖子さんと「Sorto&nodo」というユニットを結成し、現在も活動を続けている。

「2000年頃だと思いますけど、ある映画の撮影で長野で開催された『EQUINOX』(イクイノックス)っていう野外パーティーに行ったんです。行ってみたら会場中をスピーカーで囲んであって、すごく音が良いんですよ。そのサウンドデザインをしていた人が(※4)小野さんだったんですけど、とにかく、アンビエントのフロアが最高で。あまりに音が良すぎて仕事が終わった後にずっとそこにいたら、もう普通の音楽に戻れなくなっちゃった(笑)もう、サイケデリックトランスとアンビエントしかないだろうみたいな感じになって、一気にそっち系の音楽に目覚めて40代でDJも始めたんです。その後、マニュエル・ゲッチングが日本で初めて『E2-E4』をライブでやったのを、富士山の麓っぱらで開催された『ANOYO』(アノヨ)っていうパーティーで観て、ものすごく感動して、Sorto&nodoをやり始めました。あの当時はパーティーやCLUBによく通いましたね。青山に『BLUE』っていうCLUBがあったんですが、そこに一番よく通っていて、『BLUE』で、あの小野さんと偶然話す機会があって、自分はサラウンドが好きでこんなことをやってますって話したら気が合っちゃって、いろいろと教えてもらいました。小野さんがいなかったら、その後、ライブPAはやってなかったでしょうね」

Sorto&nodoは2019年にビルの老朽化に伴い、惜しまれつつ閉店した六本木の文化発信基地だった『Super Deluxe』を根城にライブ活動を行い、りんご音楽祭他多くのイベントに出演してきた。クラブサウンドに傾倒していた阿尾がなぜ、またシティポップサウンドに戻ったのか。

ー究極の体験・死からの生還ー

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