知覧:どう見るかにも多様性を
8月の九州旅行。兼ねてから行きたいと思っていた鹿児島の知覧特攻平和会館に行ってきました。結論から言うと、行ってよかった。でも、訪問から2か月が経ちますが、知覧特攻平和会館の感想をどう言語化するかはとても難しい作業のように思います。今回は、自分なりの考えを整理してみたいと思います。
知覧特攻平和会館とは
知覧は、爆弾を装着した飛行機で敵艦に体当たりするという、戦史でも稀にみる作戦の出撃の舞台になった場所。出撃前の多くの兵士が人生の最後の数日間を過ごした場所でもあります。
知覧特攻平和会館には、たくさんの資料が展示されています。やはり、出撃前、「明日、死ぬ」とわかっている若い兵士が家族にあてた手紙は展示のハイライトだと思います。もちろん、上層部の検閲も入るわけなので、軍部やお上への批判などを書くことができない、ということは割り引いて考える必要があるとは思います。
知覧特攻平和会館のHPには次のような紹介があります。
そういえば、知覧特攻平和会館はパリ五輪後、卓球の早田ひな選手が次のような発言をして話題になりましたよね。
知覧を訪れた後に何を感じるか
では、知覧を訪れた後、私は何を感じたか…。それは、「これだけ多くの未来への希望に満ち溢れていたはずの若者たちはなぜ死ななければならなかったのか」ということです。平和会館の紹介にも、「命の尊さ・尊厳を無視した戦法」とありますが、まさにその通りだと感じました。
語弊を恐れずに言えば、平和会館で展示されているものは、「組織の末端を生きた人たちの歴史」。政策決定者(policy maker)や組織の中枢にいる人たちが「なぜこのような手段で戦おうと思ったか」「敵艦に体当たりできなかったとしても、『必ず死ね。生きて帰ってくるな』と言ったのはなぜなのか」は焦点を当てられなければならない問題だと感じます。(沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」に行ったり、本で「インパール作戦」について読んだりした時も同様のことを感じました。)
戦後の経済発展は戦時の尊い犠牲の上に成り立っているのか
人によっては、「知覧から出撃して亡くなった特攻隊の方々の犠牲の上に戦後の経済発展は成り立っている」というような議論を聞くこともあります。
国は過去の歴史の積み上げの上に成り立っている、という意味では否定できない言葉です。ただ、これまでの議論とも重なりますが、若い人に犠牲を強いる方法を回避することはできなかったのか、こそ考えたいところです。
最近は人手不足のため、待遇改善に取り組む会社も多くあります。しかし、一時期、「ブラック企業」という言葉が流行語となったように、若い人から搾取するという考え方、社会風土というのは、実は変わっていないのではないかと感じることもあります。一度、「論語濃度」という言葉で若者の搾取について投稿した記事がありますので、もしよければそちらをご参照ください。
書いてみたけどなかなかまとまらない
知覧について、いつかnoteに書こうと思って、今回、ようやく書いたわけですが、時間がかかりましたし、まだ十分に表現できていない部分もあります。また、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんが経営していた食堂は現在、特攻に関する資料館になっていますが、そこで見た上原良司隊員の話は忘れることができません(特攻隊員でありながら、特攻に痛烈な批判をしていた人の話です)。
特攻隊員は出撃のあと、「薩摩富士」とも呼ばれる開聞岳を過ぎると、覚悟を決めたといわれます。今回の旅行でも、開聞岳を見ましたが、知覧に行く前とあとではその姿も違ったものに見えてきてしまいます。
先の大戦の解釈も人それぞれ、そもそもものの見方は人それぞれ。知覧特攻平和会館を見た人の感想もそれぞれなんだと思います。それぞれの見方をフラットにオープンに議論できる環境こそ必要なのではないかとも感じています。