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【自己紹介⑦】いざ帰国、まるで外国のように感じられた日本

帰国と違和感


バークリー音楽大学を卒業、ボストンから日本に帰国

19才からアメリカで過ごしたので、帰国した当初はまるで外国のような感覚がありました。

● 渡米前はなかった消費税の導入
● お札が一回り小さい新札に

…など社会的にも変化があり戸惑いましたが

一番の違和感だったのは

日本人の声が良くない、声が小さい

という事でした。

アメリカ人の、会話内に相手の名前を入れる、大げさにも思えるジェスチャー、そして相手に伝わるように話す、相手の目を見て話す…などに慣れていた私にとっては、日本人は控えめな印象が強く外国人のようにも思えてしまっていました。

アメリカ人と話していて、英語が聞き取れないことはあっても「声が聞こえない」ことはなかったと思います。

帰国すると、日本人同士の会話なので日本語は完全に理解できるはずなのに、それにしても「声がきこえにくい」のです。

そして、相手に合わせてどんどん自分の声も小さくなっていくのを感じるようにもなりました。


ちなみに私は子供の頃から、「声が大きい子」でした。

仕事中私がそばにいると、父親が仕事に集中できないほど私の声は大きく、母親に「この子もう少し遠ざけて」とお願いすることもあったようです。


そんな私でも、帰国後声が小さくなっていくのを感じるにつけ、「英語と日本語の違い」がその原因ではないか、と思うようになりました。

そう、私のボイストレーニングのきっかけのひとつは、実は「英語と日本語の違い」、違和感というか興味からでした。

このことに関しては、別の機会に改めてお話したいと思います。


帰国後の道


帰国後、すぐにバークリー留学を勧めてくれた親戚に「バークリー音楽大学卒業」の報告がてら挨拶にいきました。

親戚は母の従兄弟、私にとっては「叔父」のような存在でしたが、

叔父は「本当に君がバークリーに行くとは思っていなかったよ」と冗談交じりに迎えてくれて、それからしばらく叔父の下、いわゆる下働きをしました。


そんな中、「シンガーソングライター」としてデビューしてみないか、というお話も頂きました。

レコード大賞受賞作家の血を引いている、バークリー音楽大学卒業…などの要素があったからでしょう。


でも、実は私には自分がシンガーソングライターという「フロントマン」への願望を強く持つことは出来ませんでした。


それは….

「叔父」は沢田研二さん始め多く歌手に楽曲を提供していた作曲家、また沢田研二さんのキーボーディストとしてコンサートで演奏もしていたので、
子供の頃から沢田研二さんがコンサートを行う時には、楽屋にも入れて頂いたり、コンサートを観せて頂いていました。


沢田研二さんと言えば、その当時トップアーティスト。

歌唱力は勿論の事、MCも面白く、超一流のエンターテナーを身近に感じられた事はとても貴重な体験で有難い事でした。


そこで私が感じた事は、ステージの真ん中に立つ人、いわゆるフロントマンは、単に歌がうまいだけでも、ビジュアルが良いだけではダメ、

よく言われる事ですが「華」がなければいけないのだと。

人より声が大きく、声が出やすい、歌が得意...ということを考えると、

歌手になりたい、人の前に立ちたい、という願望が出てくるのが普通かと思いますが、不思議なくらい私にはそれがなかったのは

どんなにうまく歌えたとしても、あの沢田研二さんのように人前に立てるイメージが湧かなかったからなのです。


シンガーソングライターのお話がもたらしたもの


しかし「シンガーソングライターのお話」は、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれました。

その話を頂いた当初は、自分自身の力がわからなく、また歌も発声法も合っているのか客観的には捉えることができなかったので

「叔父」さんに「ボイストレーニングを受けた方が良いでしょうか?」と聞くと「叔父」は「君は受けなくていいよ」と。


長年、沢田研二さんはじめ多くの一流のプロ歌手と仕事をしてきた「叔父」さんから

● 声や歌を認めて貰えたことがとても嬉しかったこと

● 結果ボイストレーニングは受けなかったこと


今思うと、この「叔父」の言葉が、その後の自分を作ってくれたと感謝しています。

あの時、もしボイストレーニングを勧められて受けていたら、現在のような「自由な発想」はしていなかったと思います。


でも、その時はまさか自分自身がボイストレーナーになるとは夢にも思っていませんでした。

でもどうして神様はこの能力を私に与えて下さったのか、と考えることもよくありました。

結論から言うと、「ボイストレーナー」が私の天職、そして使命なのだと今は思っています。


帰国した当時の夢


では、帰国した当時に私が目指したものはなんだったのか。

高校生になったくらいから

「音楽が好きで好きでしょうがない」

でも前述したような理由で表には立てない...

じゃどうすれば?....そんな葛藤が常にありました。

そんな中一冊の本に出会いました。
それは後にYMOのメンバーになった細野晴臣さんの著書

「レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす」でした。

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アメリカには、プロデューサーという音楽を作る中心の仕事、いわゆる「縁の下の力持ち」のような仕事があることを知り、それまでモヤモヤしていたものが急に晴れていったことを覚えています。


「シンガーソングライター」という有難いお話を頂いたときに、

「レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす」を読んだ時のことを思い出しました。

「そうだ、プロデューサーになりたかったんだ!」と。

なので、シンガーソングライターのお話は無しになりました。


結果的に、現在はボイストレーナーを天職だと思っていますが、天職と思えるボイストレーナーになるまでは、紆余曲折ありました。

次回は、作家事務所に所属して作曲家としての活動していた頃のお話をさせて頂きたいと思います。


小泉 誠司

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