良い・悪いではなく、認識力をつける比較
「比べることはいけないことですか?」という質問を受けたことがあります。この質問者は、
子ども達が「〇〇くんは足が速くて、〇〇ちゃんは遅い」という話をしていたところ、近くにいた別の大人が「比べるのは良くないんじゃないの?」とその子達に声を掛けた時、話していた子どもの表情が曇ったという出来事から、疑問を抱いたようでした。
「比べることはよくない」と言った人はきっと「みんな違うのは当たり前で、そのことを受け入れるべき」とか「人を比較して、評価するべきではない」など・・多様性や平等という概念が頭の中にあったのでしょう。
でも、その話をしていた子どもにとっては「車と新幹線どっちが速いか?」と、「あの子とこの子、どっちが速いか?」ということと同じで、単なる事実を話していただけなのだと思います。
意地悪な言い方で、ネガティブなエネルギーがこもっている場合は別ですが、子どもの会話は、深い意味もなく事実を話している場合も多いのです。
子どもの深い意味はない会話を、大人が曲がって受け取り、良い・悪いと概念的に捉えることが多々あります。
多様性という言葉を多く耳にするようになり、人はどこかで「多様性が良い」という解釈になっているようです。
男女平等や男女均等なども様々な場面で聞くようになりましたが、それが「良いことだから平等にする・男女の差を無くす」ということとも違います。
ただ、多様な世界なんだということ。
そして、平等という土台の上で自由に選択できる世界であるということ。
それが“良いこと”と言うよりも当たり前のことなのです。
認識力は、比較することで育ちます。
比べることで、自分が「どちらを選ぶか」という選択の基準ができます。「実際にどうであるのか」「何があって、何がないのか」を観ることができる力:認識力は、比べることから始まります。
子どもが足の速さを比べることは、単なる競争心からとは限りません。ただ、どちらが速いか、遅いかというだけで、それ以上の意味でもそれ以下の意味でもありません。
「あの子は足が速い(遅い)」
「あの子は背が高い(低い)」
「あの子は声が大きい(小さい)」
「あの子は絵が上手(下手)」
など、これらのことは比べる対象があって、認識したことです。
それは、「良い」「悪い」という基準とは別のことです。
こんなエピソードがあります。
ザトウムシという全長3〜4センチのクモに似た虫がいます。6本の足と2本の触覚はひょろっと長く、体は米粒ほどの大きさで、触覚で手探りをしながら、ヨロヨロと歩いている虫です。
ある時、子どもがザトウムシを捕まえると、足が一本取れてしまいました。
その子は、バランスが悪くなったザトウムシを見て、反対の足を一本取りました。すると、ザトウムシは残った足で必死に歩いていました。
その子は足を全部取るとどうなるんだろうと思ったのか、足を全部取ってしまいました。そして「うごかなくなっちゃった」と呟いていました。
この話を聞くと、残酷だと思う人もいるでしょう。
「正しい事を教えなければならぬ」という人は、「どんなに小さな虫だろうと命は大切なんだ」と説くかもしれません。
私に見えていた事は、その子はただ「足を取って、こうしたらどうだろう」とやってみていただけ。その体験から何かを感じたことが、その子の言葉と表情から見て取れました。「良いこと」とか「悪いこと」ではない、もっと深い体験をしたようでした。
大人は「それが良いことなのか、悪いことなのか」という判断をしがちです。
ある人にとって「良いこと」も別の角度から見ている人にとっては「悪いこと」ということもあります。その良い・悪いの争いが、宗教戦争の元にもなります。
世の中には、絶対的な良いこと・悪いことがある訳ではありません。
「私は、何を大切にしている人なのか?」という自分のあり方からの選択が、その時その時にあるだけです。
その選択をするための認識力が比較です。
そして、自分の選択とは別の選択をする人もいます。「自分が正しい」とか「こっちの方が良いこと」などではなく、いろいろな「世界観を持っている人がいる」ということが“多様性”です。
何かに対し、“正しい”とか“良い”と思う考えに出会った時、「その根っこ・本質は何なのだろう?」と自分なりに探究してみて下さい。
「否定するための比較」ではなく、「認識力をつける比較」を手に入れる時、良いか・悪いかを超えて多様性という本質に近づけると信じています。
https://www.new-edulittletree.com
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?