この世界が良くなる日は来ますか?
以前、インドに行った時のことです。
オートリキシャーで街中を走っている時、路上生活をしている家族たちを目にしました。その時、一緒に乗っていたインドに住んでいる知人に
「この世界が良くなる日が来ると思いますか?」と聞かれました。
私はその質問にドキッとしながら「思います。」と答えると同時に、目の前の情景を見て『本当にそんな日が来るのかな・・』と疑念も浮かびました。
世界の飢餓は無くならず、貧富の格差はますます大きくなり、相変わらず戦争をしたがる政治家は健在で、教育費よりも軍事費に国家予算を費やしている・・・そんな世界を見回すと、『良くなるのだろうか』と虚しさと共に無力感を感じている人も多いのではないでしょうか。
私にその質問をして来た知人にも、虚しさと諦めのようなものを感じました。
私たちはどんな世界を望んでいるのでしょう。
遠い世界で起きている貧困や内戦、難民のことよりも、
明日の仕事のこと、家族のこと、宿題のこと、学校のこと、お金のこと・・
目の前のそのことの方が解決すべき問題として切羽詰まっている私たち。
世界のことよりも自分のこと。
そんな風に感じているのが正直なところなのではないでしょうか。
以前、京都大学の研究で、0歳児でも正義に共感するというものがありました。このことから、私たち人間は本能的に人を助けたいという利他的な意識があることが学術的にも証明されつつあるようです。
保育園の子ども達1歳〜2歳を連れて、森の中へ遊びに行った時のことです。
いつもはちょっと頑張れば登ることができる、チャレンジには丁度よい傾斜の土山がありました。しかしその日は乾燥して足元の砂が滑ってしまい、苦労して登る子ども達。
先頭に登っていた2歳児の男の子も今にも泣きそうになりながらも、歯を食いしばり、やっとのことで一番上まで登ることができました。登り切るとすぐに、後ろを振り返って「お〜い!だいじょうぶ〜?」と他の子に声を掛けていました。
後に続く他の子どもたちの中には、諦めて引き返す子や保育者に助けを求める子など、その日はみんながべそをかきながらも、その土山にチャレンジしていました。
もちろんやめてもよいのですが、登れた子がいると『どうしても自分も登りたい』という気持ちが出て来て、みんな諦めません。
すると、先ほどの一番に登った子が、次に来た子の手を掴んで引っ張りあげ、二番目に登った子が今度は最初に登った子に加勢して、一緒に引っ張りあげる役目になり、そして次の子は、落ちないようにその二人の服を掴んで・・と、まるでチームでチャレンジしているかのような光景になりました。
その日の子ども達の達成感と連帯感はすばらしく、側でサポートしつつ見ていた私たち保育者も本気で応援し、感動体験となりました。
自然の中で遊ぶ子ども達の姿を見て、“助け合うことは人間の本能だ”と思うことは、何度もあります。
今世界で起きている、飢餓や貧困・難民問題などの状況を見ると心が痛むのは、この助け合いの本能から来るのではないかと思います。
そしてこうした現実を直視し、私たちが創り出したい世界を明確に選択することが大切なのではないでしょうか。
目を背けていたり、無関心でいては、世界は変わりませんから。
直視することで、先ほどの子どもたちのように弱者に手を伸ばす行動が生まれるのだと思います。
「自分はどんな世界を望んでいるのか」「何を選択する自分なのか」に明確であることが大切です。
今、世界は様々な両極端の出来事が噴出しています。
フランシスコ教皇(ローマ法王)やダライ・ラマ法王は、宗教の枠を超えて、一つの真理へ向かっていくことを語り、その一方でトランプ大統領のように、人を差別し排除するような、分離へと向かっている人が出て来る。
これは両極の現れではないでしょうか。
両極端だからこそ、どちらか一方に賛同する心が生まれ、選択ができます。
これは聖書に出て来る『裂開の剣』のことで、どちらを選択するかをはっきりする時が来たということなのです。
今の時代の変化の中で、私たち人類が様々なことに気づき、選択する機会が次々と起きているのだと思います。
まずい食べ物と美味しい食べ物だったら、迷わず美味しい方を私は選びます。それと同じように、自分はどちらの世界を選ぶか・・それを明確に意識する、そのエネルギーが世界を動かすのです。
冒頭に書いた「この世界が良くなる日が来ると思いますか?」の私の今の答えは、
「はい、思います。人の意識が変われば、オセロの駒が黒から白に一気に変わるように。」
人の意識が、正義へ向き、愛を表現すれば、利他的な仕組みや行動を生み出し、世界は急速に変化していくと私は信じています。
土台は「助け合いの本能」=“正義”と“愛”の世界に生きる私たちですから。
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