“本物”として存在
その日は朝から疲れてだるいような体の感覚でした。その状態のまま、メールチェックをしていると、仕事のメールが来ていました。それを読んでいるうちに、私の中でイライラが増幅し、頭の中で文句が膨らんでいくのを感じました。そのままそのメールには返事はせず、パソコンを閉じました。その後も、モヤモヤ・イライラ・・で過ごし、そのことを「メールのせい」だと思っていました。
そしてその日の夕方、簡単な瞑想の時間を作り、目を瞑って自分の頭の中を静かにすると、あることに気づいたのです。
それは、前日ある出来事から自分の中に“怒り”が湧いた瞬間があり、その“怒り”をキャッチした私は、次の瞬間周りの人に気づかれないように“怒り”の感情にフタをしたという、その時の自分が浮かんで来たのです。
その日のモヤモヤ・イライラは“メールのせい”ではなく、閉じ込められて表現されなかった“怒り”だったのです。
“怒り”を閉じ込めたことも、そのモヤモヤ・イライラを他のことにすり替えてしまっていたことも、無意識でした。
このことから、自分は自動的に負の感情にフタをし、クリアーでない居心地の悪さに何か理由付けをしているんだなと気づきました。
その日の私は、仕事をしていも、人と話をしていても、なんだか本来の自分ではない感覚がありました。それはパワーのない状態です。
私たちはこうして自分の中にある感情にフタをして感じないようにし、自分の思っていることを言わずに、本来の自分を表に出さないようにして生きているのかもしれません。
そうしている間は、どこかパワーがなく、力が入らないような感覚になります。
私の知人は、今、このような状態に陥っています。
あまりにもフタをした人生を過ごして来てしまったので、どこで・いつ自分の感情にフタをしたのかすらわからなくなり、自分が自分でないように感じているようです。
そしていつも、「これでいいのかな」「これを言っても大丈夫かな」「こんなことしておかしくないかな」・・と、「自分がどうしたいか」よりも「人がどう思うか」に意識が向いています。
・何か正しい答えがあるように思っている
・人から言われたことが「真実」になってしまっている
・他の人と同じようにしていることが安心
このような体験は、誰にでもあるのではないでしょうか?
私たちみんなが他人の顔色を見て過ごしているとしたら、どういう世界になるでしょうか。
私たち一人ひとりが自分自身のやりたいこと・思ったこと・感じたことをせずに過ごしている世界はどうなるでしょうか。
逆に・・
自分自身のやりたいこと・思っていること・感じていることを大切にし、世界に発信している人はどんな人でしょうか。
一人ひとりが自分自身の想いを表現できる世界とは、どんな世界でしょうか。
一人ひとりが自分自身に「本物である」ということが、豊かな表現の世界を創り出すのです。
「本物である」という状態は、自分自身の言葉をそのまま発することに躊躇がなく、自分自身の考えに正直であり、自分自身の感覚を信じている・・そして、周りの人に対しての絶対的な“信”がある。
そこには、不安も迷いもありません。
これが、私たちが本物として存在している状態です。
私たち一人ひとりが、出て来た感情に正面から向き合い、誠実に扱う時、その感情のエネルギーは表現されて、ネガティブなものは消え、ポジティブなものは現実を創り出すパワーの源になります。
私たち一人ひとりが、出て来た思考に責任を持ち、クリアに捉える時、その思考が現実を創り出す具体的な力となります。
私たち一人ひとりが、出て来た感覚を信じる時、他人との共感が生まれ、「全は一」という真理に行き着きます。
私たちが「本物として存在する時」、全ての人が生き生きとした人生を手に入れ、平和な世界を実現することが可能となります。
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