言葉が持つ“音のエネルギー”を聴く耳
あるお母さんから電話で相談を受けました。
その時は時間がゆっくり取れず、少しだけ話を聞き、私の考えや伝えたいと思ったことを話して時間切れ。
切った後
『あれ?相談内容はあれだけだったのだろうか?』
という思いが私の中に残り、気になって仕方がありませんでした。
この時私の中にあったことは、相手の気持ちがきちんと受け取れたのだろうかという心配と、今どんな様子だろうかという考慮でした。そしていつまでも気になり、しばらくそのことを引きずっていました。
電話を切ったのに、まだ終わっていないような“不完了”の状態でした。
本当に相手に寄り添えた時の私は、相手の“言葉と一緒にいる”状態で、手に取るようにその人の気持ち、考え、体験が伝わって来ます。
冒頭の私は、時間があまりないことに捉われ、相手の話を聞きながら「きっとこういうことだろう」と、自分の頭の中で考えたことを話していました。相手の状態をきちんと把握していないのに話を終わらせてしまったような感覚でした。
相手が“本当に求めていた答えを導き出すことができたかどうか”が不明確であることが考慮の元だったのです。
この出来事から、改めて「相手を聴く」「相手を受け取る」ということの大切さを感じました。
私は以前、ショッピングモールでインフォメーションカウンターの仕事をしたことがあります。クレームを電話で受けたり、カウンターにクレームを言いに来たお客さんの対応をしたりしました。
その時にクレームのお客さんが“面倒な人だ”とか“怒っている人だ”と自分の思考のフィルターを通してみていると、クレームは長くなり、その対応にも苦労します。
でも、“この人はどんなことを訴えたいのだろう?”と真意を汲むように、そして“お客さんの力になろう”というあり方で話を聞いていると、問題のポイントがはっきりし、その人の満足の行く対応に落ち着く・・という体験をしました。うまくいった時、相手は“クレーマー”とも“面倒な人”とも自分には現れていなかったのです。
このように、相手のことが自分にどう現れているのか?=自分のフィルターで全く違った状態になることがあります。
日常の中でも、自分のフィルターを通して見ていることと、本来の相手の姿が違うことがあります。
“今”目の前に、甘えて来た子どもに対して「この子はいつも甘えん坊だ」と自分に現れていると、「仕方がない」とか「いつものことだ」と自動的な対応となり、子どものその時の訴えに答えられていないかもしれません。
“今”、何か要望がある保護者に対して「この人はいつも何か言って来る人だ」と現れていると、その保護者の真意が捉えられず、表面的な対応になってわだかまりが残ることもあります。
“今”、相談してきている友人に対して「この人はいつも同じことを悩んでる人」と現れていると、本当には友人を力づけられないかもしれません。
まだ言葉で上手に表現できない小さな子どもの話をよーく聞いていると、なんとなくこんなことを訴えているんだな〜と伝わって来るということがあります。
この人は「〇〇な人だ」と思っていたけど、じっくり話してみたら実はそうでもなかったということもあります。
このような時、自分の頭の中の言葉に耳を貸しているのではなく、相手の言葉と共にいる・・という状態なのです。
目の前にいる相手の“言葉と一緒にいる”と、その人の体験や感覚・考えが手に取るように伝わってきます。話している“言葉の元”になっているその人の体験やイメージ・ビジョンのエネルギーが伝わって来るのです。
私たちの住んでいるこの地球は、アインシュタインが証明したように相対的な惑星です。ですから言葉も相対的に“意味”と“音”に分かれます。
私たちは“意味”だけを解釈して聞いていることが多く、言葉の持つ“音のエネルギー”には注意を向けていないことが多いのかもしれません。
相手の言葉と共にいる時、相手と自分との間に新しい“可能性”が見えることがあります。その“可能性”を一緒に感じ、二人の間に喜びなどの質的なエネルギーの共有が起きています。それは、新しいビジョンやイメージが生まれるような体験になります。
私たち一人ひとり、思考のフィルターをかけることなく“あるがままを聴く耳”を手に入れると、世界は軽くシンプルになります。
相手と共にいるだけで、何か伝わって来る・・テレパシーのようなコミュニケーションが可能になるかもしれませんね!
様々な“言葉”が溢れている世の中だからこそ、
言葉の“意味”だけではなく、言葉が持つ“音のエネルギー”が伝えるビジョン・イメージも聴くことのできる耳を手に入れていくこと。
そのことが必要かもしれません。
そして、世界の“可能性”に耳を澄ませるようになると、世界はよりシンプルに、平和へ向かっていくのではないでしょうか。
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