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あなたから見える世界は、どんな世界?

東京の至る街でインド料理屋を見かける。
大きい街だけでなく、こんな所に?という地域にもあるから驚きだ。

ということで少しググってみると、東京ではスタバの数よりもインド料理屋の数が多いという事が分かった。私の住む街にもインド料理屋が5軒もある。そんなに需要があるのか?と思う程だ。

周知の事実かもしれないが、街でよく見かけるインド料理屋のコックさんのほとんどがネパール人もしくはバングラデシュ人が圧倒的に多い。お店の人話を聞いていると、看板にインド料理の文字を入れないと日本人が安心して入ってこないということだ。それでインド人がいないインド料理が沢山できてしまうわけだ。

海外でも寿司屋で同じような現象を見かける。中国人や韓国人の料理人が作る寿司屋のようだ。ま、美味しければ国籍は関係ないのかもしれない。

今回は、そんな日本人の生活にも馴染み深い国からやってきた青年について話そうと思う。

ロハンと出会う。

ロハンとの出会いは、国際交流パーティーだった。
体全体から優しさとおおらかさが滲み出ていたので話しかけた。インド系の顔をしているが、珍しくインド訛りのない英語を話していたので理由を聞いていくと、インドのムンバイに生まれ、ロシア、日本、ハンガリーと各国を転々としながら育ってきたそうだ。

彼は、敬虔なジャイナ教の母とヒンドゥー教の父との間に生まれ、14歳まで熱心に宗教を信じていた。

ん、ジャイナ教?
俺は、彼から聞くまで知らなかった。
知らない方も多いと思うので簡単に言うと、、

ジャイナ教

ジャイナ教では「来世を信じ、すべての生き物に魂が宿っていると信じる」「不殺生・非暴力」を掲げ、厳格な信者は目に見えない微生物や虫を吸い込んで殺さないように口を布で覆ったり、踏みつぶさないように目の前をほうきで掃きながら歩んだりと、細心の注意を払っている。

https://www.businessinsider.jp/post-204396

調べてみると、仏教に似ている部分もあって理解しやすかったが厳格な信者のレベルがなかなか高すぎる。微生物を吸い込まないように、口を布で覆うって、、それを実践し続けるって相当ハードだと思う。
しかも、ロハンの母ちゃんだけが結構敬虔な信者って言ってたから、ヒンドゥー教の父ちゃんや兄弟は大変だったのかな。

詳しくは、以下のNYのジャイナ教の人たちに取材した簡潔にまとめられた記事があるので是非。


インターネットとの出会い

しかし、あることがきっかけで徐々に宗教への熱が冷めていったと言う。
なぜ彼は、宗教を信じなくなっていったのか。

それは、多感な時期を宗教色の強いインドではなくロシアや日本で過ごしたことも関係していると思うが、インターネットとの出会いだった。

思春期真っ只中の14歳を日本で過ごす中、親に自分の素朴な疑問を投げかけたが答えてもらえないことが度々あった。当時、宗教に全ての答えがあると思っていた彼は徐々に宗教に対して懐疑的になっていった。その頃インターネットに出会い、自分の疑問を次々調べていく中で宗教は人間によって作られたものだと知った。

宗教色の弱い日本ではこの感覚は難しいんだけど、特に宗教色が強い国に行くと本当に神様に身を委ねている人が多い。お爺さんに「元気ですか?」と尋ねると「インシャラー(神の御心のままに)」と返ってくる人もよくいる。自分の健康状態でしょってツッコミたくなるけど、それだけ神様を信じている。

その時、彼の中で何かが弾けて宗教への信仰心を失った。

それまで、信仰心の強かった彼にとって衝撃的であったに違いない。彼は、それまで信じていた価値基準は神ではなく人によって作られたものだと知り、彼の内なる世界は崩れたそうだ。まさに、トゥルーマンショーのようだ。今まで彼が信じてきた世界はなんだったのか。彼は、「それまで培ってきたパーソナリティー(人格)がゼロになった」と言う。まさに自我の崩壊に近い。

インドの文化では、ヒンドゥー教の家に生まれたら選択の余地もなくその子供もヒンドゥー教徒になる。信仰と文化が密接なインドでは、信仰を切り離して生活するのは難しい。なぜなら、生活する上で宗教の教えが善悪の判断や価値観、考え方になるからだ。

罪の文化と恥の文化

宗教と聞いただけで敬遠する空気がある日本では、想像もつかない話だ。日本では、恥の文化が根底にあるので周りの目を気にして恥にならないような行動を取ることで秩序が守られている。例えば、江戸時代の5人組や第二次世界大戦の隣組を代表するような相互監視システムだ。現代で言えば、自粛警察である。

一方、罪の文化が根底にある国では、個人が良心による内面的なの自覚に基づいて行動を律している。つまり、神様と自分との対話によって行動が決められ、善い行いをすることで秩序が保たれる。つまり、罪の文化の国で神を信じないということは、善悪の基準のない何でもありの信用できない人になってしまう。特に宗教色が強い国や地域になれば尚更だ。

話を戻すと、その出来事以来、彼は文化的に見ればヒンドゥー教徒だが信仰はしてないと言う。しかし、信仰心の強い家族の中でそれが大きな問題になったそうだ。宗教を信じないということは、善悪の基準がないナンデモアリのやつに見られてしまうからだ。特に親世代以上の世代は、その意識が強い。

現在、両親は見守ってくれているが祖母には言えないでいるそうだ。流石に、祖母の理解の範疇を越え過ぎているそうで言えないみたい。そりゃそうだよね。

宗教に関して、以前に書いた記事もあるので是非。


彼は宗教を信じなくなった後は、哲学を学びながら自分なりの価値基準や行動基準を真剣に考えていると言う。ある意味、彼にしてみれば宗教色の強くない日本は過ごしやすいのかもしれない。

彼は生きる意味を考えながら日本社会で生活していて、俺もなんだけど案外生きる意味なんて考えないで生きた方がシンプルでいいんじゃないかって。深く考えても堂々巡りになって、結局何もならないしシンプルに自分のやりたいことやっていればいいんじゃないかな。

ま、そんなことはさておいて、俺が言いたかったのは宗教って深いし、おもろいってことだ。最近宗教と言えば日本国内ではネガティブな報道が多いけど、その反面で多くの人たちの心を救っているのも事実だ。
俺もお寺の入口とかにある掲示板みたいなところの今月の一言みたいなのにハッとさせられること結構あるんだよな。

人に対して、なるべく変な色メガネをかけずにフラットに接していきたい。


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