人を育てる難しさ。(教育⑤)
前回、モデル校プロジェクトが始まり、日本人学校や現地NGOの見学に行き、早速首都のモデル校で変化が起きた。今回は、その変化をより大きなものにしていく活動をについて書いていく。
歯車に潤滑油を。
バングラデシュの多くの学校は、外履きのまま校舎及び教室に入る。例に倣って、私の学校も外履きのまま教室に入るので教室の床は砂埃だらけで汚い。教室内が汚いことに慣れていてゴミ箱もないので、ゴミも教室の床に捨てる。
NGOの学校見学後に、ロトナ校長は自分の学校に何が活かせるのか考え、履物を脱いで教室に入るようになった。
靴を脱いで学校がキレイに使えるのはいいが、靴を脱いだ後に土の地面を歩くので足の裏が汚れて教室が汚れる。また、靴を揃えられないという理由から先生と親御さんから靴置き場を設置してほしいという話が出た。
ロトナ校長が自分で考えて行動したことに協力することで、さらに影響を広げたかったのでJICAオフィスに材料の経費を捻出してもらい、靴棚作りをすることにした。
大切に使ってもらう為に、材料の買い出しから設置まで子どもたちで考えて自分たちの力で作ってもらうことにした。刃物を使ったり、力仕事があるので5、6年生とロトナ校長とやることにした。
下駄箱作り
学校の近所で安くて丈夫な竹と針金を買って、みんなで長い竹を担いで材料を運ぶところから始めた。ノコギリで竹を切っている時に、1人の女の子が切り終えて興奮気味にこう言った。
初めてノコギリを使って、怖かったけど楽しかった。
皆で何かをするのが初めての経験だったから、やれて良かった。
イスラム教の宗教色が強いこの国では、女性がノコギリや金槌など工具を使うことは稀である。
学校には情操教育がないので、今回の靴棚作りで女子も含めて全員に初めての体験をさせてあげることができて良かった。授業は、主要教科のみで全員で行う活動がないので、今回5,6年生全員で靴棚を作れたのは意味あるものになった。どの子も生き生きした顔で体を動かして、男女で協力して作業していた。
これもイスラム教が関係するのだが、多くの学校では男女別で学校や教室が分かれているので男女が一緒にいることは少ないので、男女で協力しながら活動を行えて良かった。
上の姿を見て、下は育つ。
次の日、学校に行ってみると、下駄箱を使いたくて5、6年生が早く登校していた。靴棚に靴をバラバラに置いていたので、まずは5、6年生に他の人の靴が入るように靴を揃えて、奥から詰めて置くように使い方を見せてあげて、下級生に教えてあげるように言った。
今まで上級生と下級生が交流する機会が全くなかったので、下級生に教えることに苦戦していたが、自分たちが苦労して作ったモノだから大切に使って欲しくて、一生懸命に教えていた。
なかなか定着するのが難しく、彼らの試行錯誤は2週間以上続いた。徐々に靴棚も正しく使えるようになっていくのと連動して、教室の床にゴミを捨てる子が減っていき、授業終わりには子供が掃除をするようになっていった。
校長先生や上級生のように上に立つ者次第で変わっていくと改めて認識させられた。やらなかっただけじゃなくて、知らなかっただけである。ちょっとしたキッカケがあれば、人は変われるということを目の当たりにした。
しかし、子供たちは守っているのに他の教師が守れないことの方が問題であった。校長と他の教師で言い合いになる場面もあって、ロトナ校長も苦労していたが、子供の変わっていく姿、教室が綺麗になっていくに連れて他の先生たちも守るようになっていった。
何の為にやっているのか。
ある日、学校を支援してくれている日本のNGOの人とオフィサーが授業風景を観に来ていた。子供たちや先生が裸足でいるのにも関わらず、彼らは土足で教室にいた。入り口に新しく靴棚ができていて、全員が靴を脱いでいることが分かるのにも関わらず、何の疑問もなく土足でいることに腹が立った。
彼らが帰った後に、ロトナ校長がやりきれない顔で話しかけてきた。
なんで彼らは靴を脱がないの?ここは土足してはいけない場所でしょ?彼らがあんな姿を見せて、私たち大人は子どもに何を教えることができるの?
本当にその通りだ。
来客者にはがっかりしたけど、ロトナ校長の口からそんな言葉が聞けたことが嬉しかった。途上国支援団体のNGOは、お金を出して学校を作れば終わりなのか。やらない善よりやる偽善だが、先生たちや子供たちと心を通わせてもらいたかった。
日本の教育
日本の公立学校には、みんなで何か一つの物を作り上げる活動が多くある事に気付かされた。運動会や学芸会などの行事ごと、授業でのグループ活動など学校生活の多くにみんなで協力して行う活動がある。その為、日本人は集団行動や協調性に長けているのではないかと思う。
学校で働いている時は、学校行事は準備も手間もすごくかかる負担の大きいなと思っていたが、時間をかけるだけの意味があると感じる。忙しい日々の中で、恒例行事になり活動本来の趣旨や目的を把握しながら形だけにならないようにしたいものだ。
いざ違う国の教育に触れると、
当たり前だった日本の教育のいい所を発見できることは価値のあることだ。