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「人間という家畜」についての考察

無職211日目である。

今日は熊代亨『人間はどこまで家畜か』という本を読んだ。

要約はこんな感じである。

コスパタイパの叫ばれる合理主義・資本主義の発展した現代、人間は「家畜人たれ」という文化的な圧力の中で生きており、発達障害や精神疾患の増大が示すように、だれしもが適応できるわけではない。はたして、我々の理想の未来とはどんなものだろうか。

熊代亨『人間はどこまで家畜か』

精神科医である熊代亨が進化生物学の注目仮説「自己家畜化」というキーワードを中心に現代の生きづらさを語った本だ。ちなみに自己家畜化とは、近代のイヌやネコみたいに、人間の環境下で共生しやすいよう自ら穏やかに群れやすく進化してきた現象のことを指す。

著者の熊代は、ホモサピエンス発生期から狩猟採集時代、現代へとざっと人類の変遷を語りつつも、決して「資本主義以前の方が良かった」とまとめるわけではない。現代の発展した資本主義における恩恵も多くある。だがまずは、現代に潜む問題に意識的になり、目を向けよう。そのうえで、理想的な未来とはどんなものか考えてみよう。それが熊代の提言である。

「良い」、「悪い」を語る前に、まず事実の整理をしてから考える。この立場にはわたしも賛同である。いまわたしがケア論・倫理学あたりを学んで書こうとしているのも、彼と同様の視点からのものである。

本屋に行けばたくさんのビジネス本が並んでいる。わたしもたくさん読む。マーケティング、文章術、節約、人生術、仕事術、その他。ビジネス本の大半は資本主義社会におけるビジネスの進め方や生き方が題材なのである。

なにを当たり前のことを書いているのか、と思われるかもしれない。確かに何かしら稼がなければ食っていけない。学校で授業を受け、人間関係を築き、受験をして、就活を経て就職し、会社で働く。これが現代日本における主流の生き方である。でも、受験も就活も労働にも気が進まないわたしは、ずっと他の生き方を考えていた。

だから、「隠居」や「小屋暮らし」をする人たちの本も興味深く読んでいる。自給自足に近い生活、最低限の空間、最低限の収入で暮らす人たちもいるのだと思うと、なんだか安心した。

しかし、よくあるビジネス本を読んで、田舎で小屋暮らしをする人たちの本を読んでも、まだこの世界や社会が窮屈に思えた。ここから完全に抜け出すことはできないのか?国や法律、社会から抜け出すには、海外のジャングルで暮らすしかないのだろうか?いや、しかしもう現代はどこにいってもスマホを持っている。逃げ場が無いのかもしれない。

現代に生まれついて、この資本主義から抜け出すのが困難なことはわかっている。だからこの社会の中で効率よくお金を稼いでFIREをした人たちに憧れるのではないか。だから大金を稼ぎながら好きなことをして暮らす人生を羨むのではないか。

ただし、彼らへの憧れすら、仕方なくやっているという側面もある。世界の仕組みや社会の構造をわたしは深く理解していない。だから今自分がどんな社会に投げ込まれていて、どういう状況に置かれているのかを俯瞰して眺める必要がある。その上で仕事だ人生だという課題へ向き合いたい。でもそれが難しいから、とりあえず楽して儲けて生きる方法を夢想するしかないのだ。

本でも、壁の中で暮らす『進撃の巨人』の主人公、エレン・イェーガーのこんな台詞が引用されている。

「一生 壁の中から出られなくても……メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」

『進撃の巨人』

わたしがしたいのは、まずどこにどんな壁があって、壁の向こうがどんな景色なのかを知ることだ。壁の向こうが本当に危険ならば、危険だと知ることに価値がある。情報技術が発展し、資本主義が成したこの社会の、どこに楽しみがあり、どこに苦悩があり、そしてこの形以外にどんな社会が考えられるのか。まず知り、考えることから、わたしの主体的な人生が始まるだと思う。

わたしは、「どう生きたいか」という自問自答を中学生ぐらいのころから何十年も考えては軌道修正するというの繰り返している。その結果、答えが出ずに内定が無いまま大学を卒業したり、仕事を辞めて1年ニートひきこもりをしたり、あるいは現在進行形で無職211日目だったりするわけだが……。

「どう生きたいか」について、社会人生活でヒントを得た体験がある。

以前働いていた会社でのことである。同僚Aが不調を訴えて退職したいと申し出ても上司がまったく話しを聞かず(聞いても「辞めれんから」と話しを切る)、結果鬱状態になるまで放置したという出来事があった。当時わたしは他部署に居たのだが、その上司もAも仕事で通じていたため少し遅れて両者から状況を聞いた。

聞くとその上司は、Aから退職の申し出が何度もあったことを上の者(人事)に報告すらしていないという。そのときわたしは人生で初めて「キレる」という体験をした。結果、自分が両者に介入して人事に報告し、同僚Aは退職することになった。この件は以下の記事に詳しい。

わたしは感情の起伏が乏しく、「怒ることってある?」「盛り上がるときってあるの?」と人生で174回ぐらい言われた経験を持つ。そんなわたしですらこの件には怒り、上司と口論をすることになった。何がわたしをそうさせたのかと考えると、上司が「人を物として見ていた」からであろう。

同僚Aが辞めたら仕事が回らない。仕事が回らないと収益が減る。社員が辞めたら上司である自分の管理能力も問われる。その程度の理由で、(仕事が原因で)体調不良になってしまったAの退職の申し出の話を聞いて引き止めるどころか、話しを聞きもしない。挙句そのことを隠し通そうとする。上司は私より一回り以上も年上の人間だが、絶対に許せなかった。

この上司みたいに金とプライドのために魂を売ったら、人間失格だと思った。それこそ、大切なものを失った社会の家畜ではないか。他者の尊厳を踏みにじる者は絶対に許せない。翻って、わたしは初めてそこに自身の倫理観をみたのだった。

自分が「どう生きたいか」を考えると、わたしにはどうしても常にこの「倫理的であること」がついてくる。何が正しくて、何が間違っているのか。あるいは、どちらの方が善いのか。それを考えながら生きたい。

そんなことをずっと考えているだけじゃ飯は食えない。でも、こうでもない、ああでもない、という考えをひたすら書くことしか、わたしにはできないのである。


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めり込まざる者
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