ネコと和解せよ - 『Stray』
先日発売され、瞬く間にバズり散らかした猫ゲー、『Stray』。実際に遊んでみると、雰囲気ゲーっぽい見た目とは裏腹にしっかり遊ばせてくれるゲームだった。特定のコンセプトで一点突破するものが多いインディーゲーム界隈において、猫ウォーキングシミュレーター、猫パルクール、猫謎解き、猫ステルスなど色々な遊びを提供してくれる本作は珍しい部類だと思う。
このゲームをそれなりに楽しんだ一方で、俺には疑問も残った。”結局、俺は猫か、人間か?”という疑問だ。
※この先では『Stray』の完全なネタバレを行う。このまま読み進めても一向に構わないが、覚悟を決めることだ。
超高密度世界
『Stray』をプレイして最も衝撃を受けたのは、ゲーム世界の密度の高さだ。
仲間とはぐれた猫が迷い込んだ、暗黒サイバーパンク地下都市。澱んだ空気が立ち込め、看板のネオンが鈍く乱反射する。人類はとうの昔にいなくなり、管理者を失ったこの街は蓋をされた。太陽を奪われたこの都市に残されたのは、旧主の真似事をして過ごすロボットたちと、全てを喰らう異常肥大バクテリア。錆び、朽ち、色褪せながら、この街は緩慢に、そして確実に、終わりつつある。
こうした世界観のディテールが、プレイして1時間もしない間にスッと呑み込める。これはひとえに、グラフィック上のこだわりが為せる技だ。なにしろ、オブジェクトの物量ひとつとっても、インディータイトルとはとても思えない作り込みだ。インタラクトできるものが何もなく、ゲームプレイ上はただの”ハズレ”に過ぎない場所にすら、これでもかというほどオブジェクトが詰め込まれている。それも、適当な自動化で”生やした”ような配置ではない。人間的な意思を持った何者かが、不用品を乱雑に溜め込んだような怠惰な有様だ。そうした情報量の多さのおかげで『Stray』の世界にはたしかな雰囲気や実在性、文脈といったものを感じることができる。
本作はライティングも最高だ。先に述べたように、舞台となる地下都市は蓋をされ、外世界から切り離されている。陽の光が差さない退廃都市を表現するため、上から燦々と降り注ぐような強い直接照明は注意深く取り除かれ、基本的に弱めの間接照明だけとなっている。場所ごとに光の色調も微妙に変化するので、飽きが来ない。
光源の主張はかなり抑えられ、心もとない。街にはいつも黄昏のような妖しい暗がりが漂い、プレイヤーを闇に惑わせる。一匹の猫となってこの不明瞭で混沌とした街を徘徊する体験には、中高生時代の夜歩きのような背徳的な愉しみがある。
ASMRゲームとしての『Stray』
猫の仕草や都市のビジュアルに注目してしまいがちだが、『Stray』は音も一級品だ。
ゲームの最序盤で猫たちがじゃれあうシーン。ここで俺が最も心惹かれたのは、雷雨が奏でる環境音のリアルさだ。叩きつける雨、唸る雷、流れ落ちる水といった音の数々が渾然一体となってそこに存在している。この音だけを切り取ってASMRにしてもいいと思えるほどの素晴らしいこだわりだ。
探索の要素が強い本作では、あまりBGMの主張が強くない。BGMが激しく流れるシーンは大抵追われていたりして急いでいるから、じっくり聴いている余裕もない。だからこそ、上の動画のようにBGMが主役となって流れ出す瞬間は強く印象付けられる。これは人類が残した楽譜を音楽家ロボットに渡して演奏してもらうというサブクエなのだが、そうした経緯も相まって思わず聴き入ってしまう。とても感傷的な一幕だ。
猫は物語を紡げるか?
『Stray』を遊んでいて俺が一番楽しんだのは、猫目線で行うステージの探索と、それに付随して行う独特の猫パルクールだ。本作では猫らしく室外機や棚を飛び渡って軽やかに移動できるのだが、普通のゲームと足場の見た目を変えただけなのにこんなに新鮮に感じるとは思わなかった。普通のゲームでは壁としか認識できない鉄格子の隙間にスルリと入ったり、人間目線では高すぎる段差にヒラリと飛び乗ったりする瞬間に、固定観念が塗り替えられる面白さが迸る。可能であれば、俺はずっとこうして猫に近づきたかった。
けれど、本作は一貫したシナリオを描くために、とかくプレイヤーを人間の側に押し留めようとしてくる。
地下都市に迷い込んだ猫は、しばらくしてB-12というドローンと知り合い、都市の外側を目指す。このB-12の話すことはすべて、ゲーム中でフキダシとして現れる。また、都市に暮らすロボットたちの会話は、B-12が翻訳する体で表示される(なのでB-12が機能しないときはロボットと会話できない)。この時点で、俺は違和感を覚えてしまった。
そう、このドローンは猫に話しかけているのではない。その猫を動かすコントローラーを握っている俺に向かって話しかけているのだ。
当たり前だが、猫は人語を解さない。猫の感情は言葉ではなく動作に宿る。驚けば尻尾を立てて飛び跳ね、眠くなれば丸くなる。警戒していれば耳を伏せ、気落ちしているときは尻尾も垂れ下がる。喋りもせず、人と同じように笑ったり泣くこともないが、猫には確かな意思と感情がある。それは愛猫家でなくとも理解できる事実だ。
ネコの国は近づかなかった
もし、”猫になる”というコンセプトを本気で徹底するなら、文字と言語という人間的なインターフェイスは真っ先に排除し、コミュニケーションは極力非言語的なものに限るべきだろう。実際、『Stray』の最序盤では、HUDに現れる地名以外に文字は現れないし、その文字も架空のものとなっている。プレイヤーをゲーム世界の外側に押しやり、一介の観客の位置に立たせようとしているのだ。
けれど、それでは猫がアウトサイドへ帰る冒険を表現できない。猫とB-12が紡ぐ友情や、都市に残されたロボットの生活風景、世界にまつわる秘密を隅々まで伝えられない。作り込んだ設定の数々をプレイヤーに披露できない。だから、本作は言語という要素を再び引っ張り出し、極めて大脳新皮質的なコミュニケーションを取らせることを選んだ。”猫になれるゲーム”である本作においてプレイヤーは猫の視点を借りた観客であるべきなのに、人として猫を操り世界に干渉する当事者へと退化/変質してしまっているのだ。
言い換えると、言葉も分からず勝手気ままな猫には人間のように冒険を語る能力はないと、開発側は暗に認識してしまっているということだ。これはある意味、ひどい本末転倒ではないか。歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの、人間だけが虚構を創り、これを共有できる存在である……という言葉がなんとなく思い出されてしまう。
言語を介さずに物語を作り上げるのは決して不可能ではない。『ICO』に『ワンダの巨像』、『風ノ旅ビト』といった傑作ゲームだって存在する。とはいえ、それはやはり、とても困難だろう。畢竟、ヒトは言葉によって人となるのだから。
そうして、『Stray』はアッサリと易きに流れてしまった。”猫になる”という、己が打ち立てたコンセプトを信じきれなかったのだ。その結果、このゲームは操作キャラを猫にすげ替えただけの凡庸なディストピアSFに甘んじてしまっている。
タラレバなど不毛だが、”ぼくがかんがえるさいきょうのStray”について思いを馳せてしまう。言語を完全に廃し、環境ストーリーテリングに徹し、サイバーパンク都市で猫が自由に歩き回るだけのゲーム。猫の見つけた物品をどう解釈するかも自由、それらを利用して別のフィールドに行くかどうかも自由。ただ猫らしくフラフラし、ロボットにちょっかいを出し、プレイヤーは観客として世界観の断片を継ぎ合わせることしかできないゲーム……出来の良いフォトモードを搭載していれば、言うことなしだ。
もし、『Stray』がそんなゲームだったら、Steamで2022年にもっとも評価の高い作品になることはなかったかもしれない。俺を含むごく一部の偏屈連中が訳知り顔でニヤニヤと評価するような、クソゲーに片足突っ込んだカルト的ゲームに成り果てて、箸にも棒にもかからなかったかもしれない。けれど、それでいいのだ。
猫は、猫であるというただそれだけで、ひとつのカルトなのだから。