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雑記二片:クソコンテンツレビューと壊された砦について

ひとつの記事にするほどでもないネタも、二つまとめたらそれっぽくなる

毛利元就

クソ作品のレビューはしたくないという話

こないだ、橋本環奈が主演する映画『バイオレンスアクション』を観た。原作漫画の1巻だけ大昔に読んだことがあって、うろ覚えだけれど面白い漫画だったはずだし、マア観に行ってみるかという具合だ。本当にでき心で、トレイラーすらまともに見ないまま劇場に向かってしまった。

一言でいえば、クソ映画だった。バイオレンスでもなければアクションでもない、よくあるいつものクソ実写化。カットバックとスローを親の仇のように細かく挿入してくるせいで、なんだかカラオケの安い自作MVみたいだった。

これは予算が足りない以前の問題だ。映像のセンスが絶望的に欠けている。カット割があまりにもデタラメすぎる。画面の動作の流れを正しく理解することすら難しい。まるで、長所を全て奪い取って不細工に仕立て直した『ベイビーわるきゅーれ』のような映画だった。いや、『ベイビーわるきゅーれ』に失礼だが。邦画をあまり見ないので知らなかったが、橋本環奈は次第にクソ映画請負人のレッテルを貼られつつあるらしい。

俺はたいてい、ゲームやら映画やらのレビュー記事を書いている。とはいえ、おすすめの良作ばかりレビューするわけではない。及第点を下回るようなものでも、なにか思うところがあれば書いたりする。たとえば、『Trek to Yomi』はゲームとしてはかなりつまらなかったけれど、そのつまらなさの理由について考えてみたくなったので書いた記事だ。

つまらなくてもレビュー記事を書く一方で、バイオレンスアクションのような明らかなクソ映画を”クソだから”という理由だけでレビューするような行いは絶対にやりたくないとも俺は思っている。

この世の中には、クソコンテンツをレビューするのを愉しむ手合がいる。ときには生業にさえしている始末だ。しかしいくら出来が悪いからといって、人が自分の人生の一部を捧げて創ったものをただ腐して金を稼いでいるのは、いかにも見世物小屋めいていて悪趣味だ。そんなタチの悪い見世物を喜ぶ連中がいるという事実にも辟易とさせられる。胸糞が悪い。俺はその手のコンテンツがサジェストされるたびに、雄叫びと共にブロックしているくらいだ。なのに、同じネタであぶく銭を儲けたい連中が山ほどいるのか、忘れたころに再びサジェストされたりする。AIやアルゴリズムが人類を滅ぼすかどうかは分からないが、俺を不愉快にしているのは確かな事実だ。

英雄を罵る、快事たり。美人を罵る、亦快事たり。
されども共に、銭なき時の事たり。

斎藤緑雨

とにかく、この手のバーチャル見世物小屋の同類になるのはまっぴらごめんだ。だから、頭が痛くなって怒りを覚えるようなクソゲーやクソ映画に出くわしたときも、それを身内で痛罵こそすれ、クソだからといってわざわざレビュー記事にしてクダを巻こうとは思わない。もしやったら人品を損なう。

そもそも、出来の悪い作品など探せば掃いて捨てるほどあるのだ。いちいち付き合っていては身がもたない。

サンドボックスにもドラマは宿るという話

『Valheim』というゲームを覚えているだろうか。北欧神話の第十世界を舞台にした、サンドボックスゲームだ。プレイヤーはヴァイキングとなり、自動生成された大自然を開拓し、冒険する。2021年に発売されてたったひと月で500万本というスマッシュヒットを記録したのだが、アップデートのスパンが長すぎたせいかいつの間にか話題に上らなくなってしまった。光陰矢の如しとはいうが、ゲームの流行り廃りは矢どころかレールガンだ。

けれど、俺は友人と『Valheim』をぼちぼち続けている。

ラスボスだけを残して何ヶ月も牧歌的な生活に勤しんでいた我々だが、こないだふと思い立ち、ラスボスを倒しに荒れ地へと向かった。戦闘中の動画を撮り忘れていたので、Youtubeから拝借しよう。

ダクソ3の覇王ウォルニールをチープにしたような髑髏の巨人ヤグルスが、今のところ『Valheim』のラスボスだ。ウォルニールは見た目に反して割と弱めなボスだったが、ヤグルスはその逆で、見てくれの何倍もイカれた力を持っている。

火傷デバフを引き起こす大爆発に、一撃でヴァイキングを殺しかねない極太ビーム、さらには広範囲に破壊をもたらすメテオ。その上、ヤグルスはとにかく硬くて長期戦を強いられる。ひとつ前のボスが体当たりと火の玉くらいしか能がないドラゴンだったことを考えると、ヤグルスは世界観が狂うレベルの強さだ。ある意味ラスボスにふさわしいが、これはもうクソゲーに片足を突っ込んでいる。我々は火傷対策なども万全にして挑んだのだが、実際には死に戻りによる人海戦術を強いられることとなった。

……ヤグルスと戦う前、俺の友人は長い間かけて荒れ地に立派な砦を築いていた。分厚い石壁で周りを囲い、中に牧場を作り、高台に据えられた大きな篝火が誇らしげに燃えていた。彼はこういう地道な作業が好きらしく、俺がいないときも一人で砦の建造を黙々と進めていたらしかったのだ。この砦は明らかに実用性を超えて大きすぎたけれど、一国一城の主となるのはたとえゲーム内でも気分がいいものだ。

ヤグルスとの戦闘が長引くと、戦線が次第に後退していった。我々は態勢を立て直すために砦まで退いたのだが、それがよくなかった。ヤグルスはいとも簡単に砦の鉄扉を突破して内部に押し入ってきたのだ。外敵から守るはずの砦の中が、あろうことか戦場になってしまった。頑丈な石壁を盾に立ち回ろうとした俺は、壁ごとビームで焼き払われてしまった。不穏に黄昏れる空の下、メテオが降り注ぐ砦の光景は壮絶の一言だった。

これに近い絶望感

死闘の果てにヤグルスを滅ぼしたとき、そこには惨憺たる破壊が広がっていた。門は吹き飛び、城壁は穴だらけになり、居住空間はほとんど吹きさらしになっていた。牧場も壊され、せっかく殖やした動物も散り散りに逃げ出してしまった。もはや砦とはいえない有様だったけれど、大篝火だけはそのままの姿で燃え続けていた。それはどこか象徴的に美しく、俺は奇妙な感動にとらわれていた。

この破壊は、やはり、どうしようもなく悲惨だ。これから何時間かければ砦を元の姿に戻せるのか、想像もつかない。悲惨であるが、しかし、このボス戦の一部始終は素晴らしくドラマチックでリアリティがあった。強大な敵、甚大な破壊、偉大な勝利という冒険譚。俺はその一部始終をかぶりつきで鑑賞し、同時に演じていたのだ。しかも、これはゲームの制作者が狙って作り出したドラマではない。誰かが脚本スクリプトを書いたわけでもない。荒れ地にデカい砦を造ろうと友人が思い立たなければ、そして砦までヤグルスをおびき寄せる愚を俺が犯さなければ──この壊滅的にリアルな出来事は生まれなかったのだ。

富も名誉も権力もだ。意味は無い。
僕にとって一番大事なのはね……ドラマだよ。

『ギルティギア ストライブ』より、ハッピーケイオス

ゲームのカットシーンでは、しばしば派手に破壊が描かれる。砦どころか街や国一つがまるごとなくなることもあるけれど、これに本気で感情移入するのは実際難しいんじゃないかと思う。プレイヤーが大剣を振るっても扉一つ満足に壊せないことがままあるゲーム世界において、スケールの大きすぎる破壊描写はそれがフィクショナルな演出であることをかえって浮き彫りにしてしまうからだ。

かたや『マインクラフト』のようなサンドボックスゲームでは、破壊も創造もプレイヤーの自由自在だ。けれど、それはアルゴリズムに制御された自動生成の世界だ。そこに造り手の意思が介在する余地はほとんどなく──ゆえにこそ、このジャンルは”砂場”と呼ばれる──人間的なナラティブといったものはハナからほとんど期待されない。

だが、俺の遊んだ『Valheim』はサンドボックスであるにも関わらず、ほとんど理想的ともいえるドラマが宿っていた。プレイヤーの主体的な行動とゲームデザインが奇跡的に噛み合った結果、誰の意図によるものでもない即興劇が生まれたのだ。俺はもう長いことゲームをやっていて様々なものを見てきたけれど、それでも時折、こうした予想外の感動に巡り合うことができる。嬉しい限りだ。

以前、押井守は7年も『フォールアウト4』を遊び続けていると聞いた。そのときは少し気味悪く感じたものだが、今となってはなんのことはない。彼は彼でゲーム世界にドラマを見出そうと努めているだけなのだろうし、それはある意味、プレイヤーとして最も真摯な姿である……


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