難しさを語る難しさ
隻狼、やってますか
先日フロム・ソフトウェアから発売された隻狼こと『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』が人気を博している。オンラインの対戦ゲームがいつも配信ランキングの上位を占めているTwitchで、一時はトップに躍り出ていたほどだ。配信数がそれだけ多いということは、隻狼は誰でも難なくクリアできるようなゲームだということだろうか?
否。断じて否である。隻狼は、どんなプレイヤーでも(『ダークソウル』や『Bloodborne』をクリアしてきたファンボーイでさえ)思わず悪態をついてしまうような、文字通り死ぬほど難しいゲームなのだ。
ザコ敵の攻撃を一発喰らうだけで体力の大半が吹っ飛ぶことなんてザラにある。しかも序盤の回復手段は少なく、小さな手傷に大きなプレッシャーがかかる。さらに、相手の攻撃を『弾く』ことを主軸とした新しい戦闘システムは、ヒットアンドアウェイや飛び道具による遠距離戦といった、かつてのフロム作品ではお馴染みだった安全策を決して許さないので、どんな小さな戦闘でさえプレイヤーは死の危険に身を晒すこととなる。だから、俺が一周目を遊んでいた時にはボス相手に何十回と殺されることは決して珍しくなかったし、ラスボスに至っては3時間以上も殺され続け、やっとのことで撃破した時にはいつの間にか夜が更けていた。
親の顔より見た死亡画面
とにかく、死にまくった。主人公が凄腕の忍者であることが疑わしくなるほど、このゲームは死にやすいのだ。プレイ中のみならず、イベントムービー内でさえ何度も死ぬのだから、フロムの殺意は筋金入りだろう。あるいは、『忍者は素早くて強いけれど体力が低くて死にやすい』という古き良きゲームの伝統に忠実だっただけかもしれないが……。
率直に言おう。隻狼を安易に人に勧めることはできない。少なくとも俺には無理だ。なぜなら、先述したとおり、決して楽なゲームではないからだ。だが、アクション、シナリオ、世界観、そして達成感などをひっくるめた一つのゲームとしての総合的な面白さは天地神明に誓って保証しよう。隻狼はフロム・ソフトウェアの過去の名作同様、ゲームデザインの細部に至るまでしっかりと作り込まれた素晴らしい逸品なのだ。
難しすぎて炎上?
隻狼が難しすぎるあまり、先日からある議論が巻き起こっている。それは、『隻狼にイージーモードを追加すべきか否か?』というものである。発端はフォーブスに掲載された以下の記事だ。
この記事の主張を簡単にまとめると、以下のようになる。
隻狼はプレイヤーをリスペクトし、イージーモードを追加すべきである。隻狼ではプレイヤーは難易度の選択ができず、ソウルシリーズのように他のプレイヤーやNPCの手助けを受けるシステムもない。つまり、高すぎる難易度と、それに対する救済措置の欠落がゲーム体験の妨げとなっている。したがって、昨年発売された傑作横スクロールアクション『Celeste』のように、フロム・ソフトウェアはイージーモードやそれに準ずるオプションを隻狼に追加し、より幅広いプレイヤーにゲーム体験を届けるべきである。イージーモードを追加することで本来のゲーム体験が損なわれるというフロムオタクの意見もあるが、そう思う者はノーマルモードでプレイすればいいだけだ。このゲームは完全に一人用であり、他人がイージーモードで遊んだからといって自分が悪影響を受けることはないのだから。
いかがだろうか。炎上狙いなのか真剣な意見なのか若干判断に困る記事だというのが俺の素直な感想だ。ちなみに、アメリカでは絶賛炎上中らしい。
難しいってなんだよ
隻狼をプレイし、おびただしい回数の死を重ねてなんとかクリアした者として、俺にはこの記事の主張に関して、多くの疑問点がある。
なので、この記事を書き始めたときはその疑問点について書き連ねるつもりだった。しかしいざ書こうとするとこの問題はあまりにも広範かつ難解で、俺の文章力ではどうにも論点がとっ散らかって可読性に支障をきたしてしまう気がする。
というわけで、以前の記事でおなじみのdunkeyの出番だ。彼はゲームと難易度について早い段階から分析し、その興味深い考察をユーモラスな動画に仕上げている。しかもなんと二本立てだ。
上記の一本目には有志の字幕があるが二本目にない。というのも、前回同様、有志たる俺が字幕を投稿しても、コミュニティなる宇宙的恐怖存在がいつまで経ってもそれを承認しないのだ。これでは字幕を作った俺の無念が浮かばれないので、今回はこの2本目の動画を中心に抄訳し、紹介したい。
dunkey曰く
アーケードゲームの全盛期には、難易度とマネタイズは物理的に連動していた。コインを入れ、残機を使い果たすまで遊ぶという仕組みがあったからだ。だから、開発者が作ろうとしていたのは、『一見簡単そうで実はゲキムズ』なゲームだった。
『パックマン』もまさにその一つだ。世界初のサバイバルホラーゲームと言えるほど、このゲームはクソ難しかった。もし奇跡的にステージ19まで行けたとして、その時にはパワーエサ(訳注:敵を食べてやっつけられるようになるアイテム)の効果もない。まるで『このゲームはここで終わり!じゃあな!死ね!』と言われているようだ。
パックマンに限らず、当時のゲームにはプレイヤーをとにかく早く殺してコインを使わせようとするような、クソ難しい上に単調なものが多かった。そして当時愛されていたのはそういうゲームだった。
もう何が何だか分からないステージ
ファミコンの登場と共に『30分でクリアできていたゲームを一ヶ月遊べるように引き延ばすにはどうすべきか?』という問題が起き、難易度の役割は変わった。
この問題の答えは簡単。しょっぱい一撃死や曖昧な謎解きや敵の無限湧きといったクソ要素をマシマシにして、馬鹿げた高難易度にしてしまうことだ。子供の頃にファミコンのゲームを全クリできていた奴なんて存在しないだろう。
だが、時代が進むとともにゲームはよりとっつきやすくなっていった。プレイヤーが本当に求めているのは勝利であると開発者が理解したからだ。『レッドデッドリデンプション2』はまさにその好例で、このゲームでは銃の狙いも馬の操作も自動でアシストされ、プレイヤーは実質的に何もしなくてもいい。けれどこのゲームは2018年で最も高く評価されたゲームの一つとなった。
良いゲームであることは間違いない
試行錯誤やミスをせず楽にゲームをしたいというのは決して間違った考えじゃないし、全てのゲームが死にゲーである必要もない。けれど、そういった意見とゲームの手応えを両立させようとすると問題が起きる。
多くの場合、難易度はキャラクターの体力やダメージの量を上下させることで調整されるが、丁度いいのはどれくらいなのか、常に疑問だ。
Halo3は『ヒロイック』こそがプレイヤーの遊ぶべき難易度で、他はただのフェイクだと説明文で教えてくれたシリーズ初のタイトルだった。一方で、COD4の難易度『レギュラー』の『あなたの戦闘能力が試されます』という説明は犬がコントローラをくわえてプレイしてる時なら正しいかもしれない。だが、難易度『ベテラン』の『もはや生き残れません』は極めて正確だ。山程のグレネードとフラッシュバンが投げ込まれ、自分がなぜ死んだのかさえ分からないのだから。
Halo3
COD4
一部のゲームは努力しているとはいえ、難易度の調整がこうもあからさますぎると、プレイヤーの達成感は矮小化されてしまう。
難易度の乱高下も問題だ。『ロックマン11』には、針山で一撃死とか、迫ってくる炎の壁で一撃死といったファミコン時代のようなクソ要素が山盛りだった。こうした難易度変化の急激さは、下手なゲームデザインの結果に過ぎない。
理想を言えば、ゲームの難易度はその進行度と正比例すべきだ。しかし大抵の場合、その難易度グラフは乱高下するし、カービィでは易しすぎてフラットになる。かの名作『スーパードンキーコング』でさえ、最後のキングクルール戦は『難しいけどフェア』から『難しいしクソゲー』になってしまう。
クソ強いボスと戦わせたりするなら、せめてまともなチェックポイントを置くべきだ。
レトロゲーにおける最も残酷な点が、ゲームオーバーになると問答無用でスタート画面まで逆戻りになることなのは間違いない。一方で、『悪魔城ドラキュラ』や『忍者龍剣伝』のようなファミコンでトップクラスに難しいゲームでさえ、敵にやられても逆戻りになるのはそのステージの最初までという親切さは持っていた。
敵が空中で無限湧きするという問題はある
チェックポイントがないと、ゲームプレイにおいて無意味な繰り返しが強制される。これはイライラするだけでなく、ゲーム全体のペース配分にとって致命的だ。一方でチェックポイントが多すぎると、歯応えのあるゲームに不可欠な緊張感を失わせてしまう。だから、ダークソウルの象徴ともいえる篝火はプレイヤーを助ける存在であるだけでなく、陰鬱とした雰囲気のゲーム内でプレイヤーの進捗を示してくれる道標だといえる。
とっつきやすさと上達も、難易度調整における一つの問題だ。
格闘ゲームは特殊なジャンルで、CPUには最高難易度でも勝てるのに、対人戦となると完膚なきまでに叩きのめされる。オーバーウォッチやCODのようなチーム戦なら自分が負けたのを他のプレイヤーのせいにできるが、格闘ゲームはそうはいかない。『これはただのクソゲー、俺は悪くない』と開き直るのがオチだ。
1000回負けてから本番とは言うけれど
とても乗り越えられそうにない難易度の壁にブチ当たると、多くのプレイヤーは『クソゲー!』と口にしてしまう。dunkeyにとってのそれは『Bloodborne』だった。2015年に初めてプレイした時は一体目のボスさえ倒せなかったが、昨年になってやっとこのゲームのシンプルさに気付いた。簡単なのではなく、とにかくシンプルなのだ。ただ避けて、ただ殴るだけというシンプルさ。これに気付けば、クソゲーじゃないと分かるという寸法だ。
フロムゲーは常に発見と学習を求める
ゲームは排他的であるより、いつだって包摂的であるほうがいい。ここでは『斑鳩』を例に取ろう。このゲームはヤバい。一目見ただけで難しい。イージーモードでさえ難しすぎるけれど、オプションで残機を無限にできる。厳密には負けることさえなくなったゲームに手応えがあるのか?……無限の残機を使い切るかと思うほど死にまくった。しかし周回を重ねるごとに死亡回数は減り、少しずつ攻略法を学んでいった。
ちなみに筆者は積んでいる
斑鳩に影響を与えた80年代アーケードSTGと同様に、達成感という概念はゲームクリアそのものではなく、そのゲームを上達することに由来する。難しいゲームに必要なのは、プレイヤーを徐々に魅了することだ。
だが、果たしてこの難しさがゲームを面白くしているのか、むしろその難しさの裏側に潜む芸術性こそがゲームを面白くしているのか……?
2パック曰く(大嘘)
難しさとは
この通り、俺が敬愛するdunkeyさえ、ゲームの面白さと難易度について明確な結論は出せていない。難易度について考えるとき、難易度もまたこちらのことを考えているのだ。
しかし確実に言えるのは、フォーブスの記者が言うようなイージーモードの導入は万能の解決策にもなり得ず、必ずしもプレイヤーへのリスペクトになるわけでもないということだ。
特に隻狼の場合、先述の斑鳩のようにイージーモードでさえ難しすぎるという事態は容易に考えられる。逆に簡単過ぎると、『本来一度しかないはずの死を繰り返す』という、このゲームのシステムだけでなく物語全体をも貫く重要なテーマに齟齬が生じるおそれがある。また、RPGのようなレベリングが存在しない純粋なアクションゲームである隻狼では難易度の調整が一筋縄でいかないのも確実だ。だからこそフロムはプレイヤーの学習と上達を信じて難易度を一つに固定し、所要時間は違えど最終的にはほとんどの人がクリアできるレベルにまで洗練させることにリソースを注ぎ込むという決断をしたのだろう。形は違えど、これもまたプレイヤーへのリスペクトには違いない。
俺がプレイした限り、隻狼の難しさとゲームの進捗はほぼ正比例している。前の場面で得た知見が、次の場面で必ず生かされるようになっているのだ。そしてこの難易度調整が客観的に正しいかどうかは、発売10日で200万本というブッ飛んだ売上を見れば明らかだ。結局のところ、製作者の血と汗の結晶たる難易度調整の努力を無視し、イージーモードを入れれば解決するという安易な発想こそ、クリエイターへのリスペクトの欠如と言わざるを得ないし、プレイヤーへのリスペクトを盾にした卑怯な主張のやり方だ。
まだ死に足りないのでは?
万人が求める難しさなど現実には存在しない。
難しさを語ることさえ難しい。
だからこそ、クリエイターもプレイヤーもそれを求めてやまないのだろう。
今はただ、隻狼の芸術的なクソ難しさに、惜しみない称賛を。