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【ネタバレ】映画レビュー「春画先生」 芳賀編

前編(弓子編)はコチラ(↓)

前編と同じく、映画を視聴された方向けの文章でネタバレを含みます。その点はご注意を。

以下、ネタバレ注意!!!!!!!(スクロールで本文が表示されます)








芳賀という人物

映画のタイトルにもなっている春画先生こと芳賀一郎(内野聖陽)。でも劇中では「春画先生」とはほとんど呼ばれておらず、「先生」か「芳賀」。ここでは「芳賀」で統一しておく。

さて、芳賀というのはどういう人物だっただろうか?ちょっとおさらいしてみる。

  • 周囲との協調性がなく、教授会とケンカして在野で春画研究を続ける。

  • 昭和的な古い家屋に、家政婦さんと暮らす。あまり描写はないが、スーツと着物の着こなしはよい。一人でアメリカにも住んでいたため、意外と家事はできるのかも知れない。

  • 過去、一葉と深く愛し合ったが、エッチの最中に研究テーマに対する重大なアイデアが浮かび、エッチを続けるか、アイデアを書き留めるかの選択を迫られる。結局、研究を優先させたため、一葉とは破局。一葉に許しを請うなかで出会った双子の妹伊都と恋に落ち、結婚にまで至るが、死別。

  • 辻村曰く「先生に触れると、どんな人も性的なリミッターが外れてしまう」。

  • 性的嗜好は

    • NTR。弓子に惹かれつつ、自分は「女断ちをしている」という名目で担当編集者兼弟子である辻本に弓子を抱かせ、その音声のみを聴く。

    • ドM。ただ、普通のセックスもできる。一葉の言葉から彼女と別れる以前からそうで、伊都との性生活もS女とM男のそれであったと考えられる。

ここで重要なのが、

  • 主人公の一人である芳賀が、ドM=SMに傾倒していたということ。そして、SMの根底にはキリスト教とその思想がある。

  • 劇中でも(非常に短く)触れられていたように、春画を日陰に追いやったのは明治以降の西洋化であり、背後にキリスト教的な思想がある。

  • つまり芳賀は「自分自身の研究対象である春画への愛情」をもちつつ「その春画の敵とも言えるキリスト教的思想を起源とする性的嗜好」も持っていて、その2つに引き裂かれている存在と言える。

ちょっと解説が必要なので、以下で詳しく述べていく。

SMってキリスト教的なの?

端的に、答えはYES。キリスト教はゲルマン民族に広がっていく中でサクリファイス(生け贄)の文化を取り込んでいく。その結果「人の原罪を全て背負い、苦しみの中で死んでいくキリスト」が、もっとも強い宗教アイコンになっていく。磔刑図、いわば「ハリツケにされるイエス」が頻繁に登場するのはこのためだ。

キリスト教の中では、人間は原罪を背負い、神から常に罰を与えられる存在。イエスが全てを背負ってくれたにもかかわらず、キリスト教徒はその受難を受け容れようとする。なぜなら、苦しみを背負うことは、救い主に近づく行為でもあるからだ。

そして、近代になって教会の権力が弱まると「神に変わって他人に苦痛を与える人々」「その受難を積極的に受け容れる人々」双方が誕生する。これが、超短縮のSMの歴史だ。

明治以降の西洋化の歴史

そして、明治以降の西洋化の歴史もざっくりと振り返ってみる。

  • 明治政府は、対外的な理由、つまり西欧諸国に日本を認めさせるため、急速な西洋化を推し進めた。しかし、実際の変化は明治政府の思惑通りにはいかず、旧来の風俗が残りながら、緩やかに西洋化は進んでいった。

  • 「文明開化の名の下に…」という芳賀の台詞が劇中にもあったけど、文明開化=西洋化と思っていい。

  • この頃の西洋は、歴史的に極めて性に抑圧的な時代だった。この思想をほぼ無批判に取り入れた日本は、今もなおこの抑圧を引っ張っている。

  • 少なくとも明治初期の日本人女性は、裸に羞恥心を持たず、ノーパンで、野ションも特に抵抗なく、セックスが恥ずかしいものとも思っていなかった。

芳賀=引き裂かれる存在

改めて芳賀という人物をみてみると、頻繁に「何かに引き裂かれている」存在であることに気づく。

  • 一葉とのセックスとその後の関係か、自身の研究か。

  • 一葉か、伊都か。

  • 図らずも他人の性欲を解放させてしまう才能のために寄ってくる男女か、亡き伊都への思いか。

  • 弓子か、春画の名品か。

そして、その根底には「自らの研究対象である春画への愛情」と「自身の性的な欲求=ドM=春画を日陰に追いやった、ある意味敵であるキリスト教的な思想」との間の葛藤があるように思う。

そしてこの葛藤は、弓子の「覚醒」を持って幸福な終焉を迎える。

「春画先生」とはどんな物語だったのか?

ラストシーンで芳賀が弓子に向かって「君は春画のようだ」というシーンがある。弓子はその言葉が今ひとつ気に入らないのだけど。

確かに、この言葉はいかにも安っぽくて、見え透いたお世辞にも聞こえる。しかし、常に引き裂かれた状態で、自身の集大成である春画大全の執筆もままならない状態だった芳賀からすれば、最大限の賛辞だったのだろう。

つまりこの台詞は「常に相反するものだった二つの愛の対象が一つに融合した」という、この上ない幸福な状態を暗示しているのだ。

弓子編で、「春画先生」という物語は、弓子にとっては「愛することができなくなった女が、再び愛する力と自由を取り戻す」という物語だったと述べた。一方芳賀にとっては「引き裂かれていた自分が、(弓子というミューズによって)一つになった」という物語だったように思う。

だから「春画先生」がどんな物語か、一言で言えば「二人の男女の再生」の物語なのだ。

新しい一歩

弓子と芳賀は「伝説の七日間のお籠もり」を再現する中で、日本の成り立ちから始まって、春画の歴史を辿るセックスの旅に出た。では、これからは?

「M男とS女」というテーマは、春画のテーマとしては一般的ではない。少なくとも僕は、このテーマで描かれた春画を見たことがない(僕が不勉強なだけかもしれない。ご存じの方がいらしたら、ぜひ教えて…)。

だから「春画先生」のラストは、春画の歴史を極めた二人が、未だかつて存在しなかった春画の世界を新たに作っていく、そんな風にも思えるのだ。


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