まわりと、光る。
ふと
最近自分に集中出来ていないな、と
思ったので
⭒私よ、私になにかメッセージある?⭒
…と心の中に問いました。
すると、
「まわりと、光る」と。
?
はじめは不思議な気持ちで、
なぜこんな言葉が生まれたのか、
なんのことを言ってるのか
よく分かりませんでした。
それでもなんとか
「まわりと光る」
という言葉を感じながら
私の脳にも分かりやすい言葉で
解釈してみました。
𖤐
「“私”というのは、
私の魂と肉体だけではない。
その周りの家、家族、ご近所さん、
人生で出会った全てさえ、
“私”の一部。」
⇩
私は自分の人生を輝かせようとして、
自分の魂と肉体を
なんとかしようとしていた
ふしがあるのでしょう。
もちろん、家族との生活を
疎かにしているつもりはないですが、
どこか「家族を含む、他人」は
私とは関係ない存在…と
強く線引きをしていたように思います。
もちろん、
自分の夫や子どもといえど他人なので、
線引きが必要な面もあると思います。
でも“私の一部”でもあるようです。
しかも、近い存在なぶん
私要素が強い、他人。
私が輝くというのは、
子どもたちが輝くということでもある…
子どもたちが輝けば、
私も輝く…
そういうことなのかもしれません。
それに、
私は夫とよく喧嘩して
つい夫に否定的になってしまうのですが、
そんな夫も私に近い、
私の一部。
夫を否定するのは、
私を否定しているのと一緒。
夫が、掃除したよ!と
意気揚々に報告していた箇所が
多少汚れていても、
無条件の愛で、受け入れたいものです…。
私がネガティブになるときは
無性に
自分や自分の行動が
受け入れられないとき。
自分の理想に自分が届いておらず
自分を責めているようなとき。
そんなネガティブ状態の期間は、
夫のことも
受け入れ難いと感じることが多いです。
やっぱり無意識に、
自分の一部としているってこと
かもしれません。
夫は他人だけど、
“私”要素が限りなく濃い存在として
見ている。
自分が光るには、
この夫も一緒に光らなきゃ。
家族以外にも、
友達…職場の人…近所の人。
人以外にも、
家…近所…職場…バスや電車、
よく行くカフェ。
日本、世界、地球。
これらも、私の一部。
線引きをしない。
𖤐
「自分の肉体だけで
光ろうとしない。
みんなで一緒に光る。」
⇩
たとえば、
体全体が不健康なときに
“胃”ばっかり健康になるために
努力しても、
意味無いですよね。
たとえいっとき、
胃が理想的な
健康状態になったとしても、
体の他の部分が不健康なら
たちまち胃もまた
調子を崩すでしょう。
それと同じで、
私の精神や肉体ばかり
調子を整えようとするから
うまくいかないのかもしれません。
𖤐
食事に気をつけて運動もこなして
仕事も勉強も精を出し、
自分磨きを頑張っても、
部屋が汚いんじゃ
自分磨きは
はかどらないでしょう。
私は
掃除や料理などの家事において
やるのは嫌いじゃないし、
むしろ無性にやりたいときもあるけど
どこか
「人生であまり必要の無い、
生産性の無い作業」
のように捉えていました。
もちろん頭ではそんなことないし、
家事は大事だと認識しているけど、
心の深いところで、無意識に
そう感じていたことに
気付いたのです。
𖤐
そういえば最近、
家族のアルバムを整えていたら
「こんな無駄なことをやっていたら駄目だ」
という気持ちが沸いてきました。
頭では、
いやべつに駄目じゃないでしょ
ネガティブになってるわよと
分かってるけど、
止められない罪悪感。
“母親”が、
家族の思い出の写真を
あとで家族で楽しく見るために
ニコニコと整理する光景は、
その人物像は、
そんなに駄目?
いえいえ、
尊いものです。
でも私は、
こんなことのために時間を使って…と
自分責めモードになってしまいました。
他人事だと尊く感じるけど、
自分事だと、駄目だと感じる。
私には、資格が無いと感じる。
こんなことが、度々あります。
まだまだ、
自己受容できていませんね。
放置されたアルバムを開き、
写真を入れて、
家族との思い出を振り替える。
押し入れの整理をする。
掃除機をかける。
こんなことで、
私の家の中は
アルバムをしまう棚は
光り輝くのではないでしょうか。
私の家が輝くなら、
私も輝く。
私が光るというのは、
私の家が光るということ。
そのための行動って
きっと尊いでしょう。
𖤐
“やりたくてやる”ことには
無駄なことなんて一つもない。
仕事も家事も、
なんとなく思い立ってやる行動も、
みんな等しく同じ価値。
同じ尊さ。
こんな考え
昭和ならあり得なかったかも
しれないけど、
今はもう少数派じゃないはず。
それなのに、
昔ながらの価値観に引っ張られる。
自分と違う価値観に
引っ張られる状態を選ぶ。
私は、私の人生を光り輝くものにしようと
するがあまり、
行動をジャッジしていたように思います。
それに、
社会的にはまだまだ資本主義なので、
「家の掃除」より「仕事」という
お金を生む行為のが
尊ばれる風潮があるでしょう。
自分の価値観を
意識して過ごさないと、
集合意識(社会的洗脳)に
流されてしまうものです。
家の周りを掃除するだとか、
美味しい料理を作るだとか
家族のアルバムを整理するだとか。
「まわりと光る」ということを
大事にするならば、
そんなことも大事で尊い。
今までは
自分で仕事をして、自分で稼ぎ、
納税し、子どもを育て…
「私が私の力で頑張らなきゃ!」
「みんなのためにも、私が光らなきゃ!」
という意識で、
「まわりと光る」の感性とは
ズレた方向に行っていた気がします。
まわりと、光る。
まわりも、自分。
自分が光るということは、
周りごと光るということ。
これから、意識していきたいです。
私とLUCA
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