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シンクロする過去と現在 3

2018/4/29 作成


“混迷する国会・タイムリーな番組”共時性?
こんなことまでNHK が放送⁉ 驚き・・・・

財務省問題(財務省次官セクハラ問題に、この国の「メルトダウン」を見た)で混迷する政界のニュースが連日世間を賑わすなか、NHK Eテレ『100分でメディア論』が再放送され、意図的に放送したのかと思ったら、企画は相当以前からあったようです。これこそホントに共時性ですね。最近NHKが面白くないと思っていたのですが、これは傑作でした。

1.      世論とメディア
  堤未果(国際ジャーナリスト)
  ウォルター・リッチマン著
  『世論』

2.      なぜ偏向報道は生まれるか
  中島岳志(東京工業大学教授)
  エドワード・サイード著
  『イスラム報道』

3.      「メディアと空気」
  大澤真幸(社会学者)
  山本七平著『空気の研究』

4.      メディアの未来
  高橋源一郎(作家・明治学院大学教授)
  ジョージ・オーエル著『1984』

最終章「マスメディアはどうあるべきか」

 四つのテーマに4冊の名著の解説と他の論客たちの意見を交えて番組は組み立てられていたのですが、4人の論客の足並みがそろい、それはもう見事というほど現代社会の矛盾や問題点を鋭く突いて、胸が空く思いの100分でした。

 四つの名著を踏まえて展開されたのは、あたかも国会の予算委員会で安倍にまつわる官僚たちの公文書改竄問題と、自己保身的忖度の為体も含めて、民主主義政治の危機が白日のもとにさらされている最中であるだけに、まるでそのことを分析して批判しているような印象を受けたのですが、この番組が収録されたのは、それ以前のことだったようです。


3.「メディアと空気」

大澤真幸(社会学者)山本七平著『空気の研究』

 山本七平(1921~1991)氏は評論家です。クリスチャンの家庭に生まれ、太平洋戦争に赴きルソン島で軍隊経験もした方です。マニラの捕虜収容施設を経て日本に帰国した後、出版社“山本書店”を経営し、日本人論を中心に評論活動を行いました。
イザヤ・ベンダサンというペンネームで発表した『日本人とユダヤ人』(1970年)が300万部のベストセラーとなり話題になりました。この方は評論家の小室直樹氏を見出した方とも言われます。
 そんな山本七平が文藝春秋社から1977年に出したのが『「空気」の研究』でした。

 今の世の中、空気を読むことは処世術として評価されますが、『「空気」の研究』では空気を読むことに対して批判的に書かれています。当時の日本では、今もそうですが、多くの人は“空気”をとても気にかけます。
そこに山本は注目し、空気が日本人の意思決定にどの様に働きかけるかを考察しました。

いわゆる「空気を読む」というときの「空気」。
日本人を呪縛する「その場の空気」という怪物!
「空気」とは何か?
この超論理的存在の発生から支配にいたるメカニズムを根底から解明した「山本日本学」の決定版。昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では〝空気〟はある種の〝絶対権威〟のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束することの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を解き明かす。
 ところがこれははっきりと「これが空気です」と明示されるわけではありません。お互いに読みあって忖度し、自らその「空気」に合わせていかないといけない、なにやらあいまいでありつつ、各個人を呪縛するものです。

 日本人の言動を支配し、無責任体制を生み出す謎の「空気」について、「空気」ははっきりこれだと言うことができないものであり、自分で解釈するしかないものであり、多様性も異論も反論も認めない、誰でもないのに誰よりも強い「臨在感」だということが言われていました。「空気」には、反対している人の理由を聞いて説得するために合理的な根拠を示すということが絶対にないのだそうです。

「空気」はそれぞれの人が考えていることとは一致していない、にも関わらず「空気」は誰よりも強いのです。時には歴史を変えてしまうようなこともなしてしまいます。

例:「戦艦大和の出撃決定」「空気が動かす都庁」

 戦艦大和の出撃決定時『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う。』
との記述が小沢治三郎中将の証言にあるのです。
また当時の連合司令長官の豊田福武(1885~1957)は戦後、様々な日本軍の作戦の無謀を社会や評論家から非難されましたが、それに対して『当時、ああぜざるを得なかったとしか答えようがない。』と述べています。
 海軍のトップでも自分の意思決定というより、“ああせざるを得なかった”と言わせるものがあったのです。それが空気の支配でした。

 『「空気」の研究』の中で、日本には“抗空気罪”という罪があって、それに反すると、最も軽くて“村八分”に処せられ、その罪は軍人・非軍人、戦前・戦後に関係なく日本に存在する大きな絶対権を持った妖怪みたいなものであり、一種の超能力のようだ、と述べられています。

空気の超能力性は、一切の科学的手段も論理的論証をも受け付けないところにある、との事です。

 昨今、話題の忖度も空気を読む結果から起きます。忖度自体は悪くないのすが、空気が明示されていないから忖度という形をとらざるを得ません。
また、東芝の不正会計も経営トップの空気を部下が読んだ結果です。製造メーカのデータ改ざんも何かの空気を踏まえた上で実行されました。今も国会でやっている財務省の決裁文書の書き換えも同じでしょう。

空気とは絶対明示的に語られないのです。

それ故に、実は人それぞれに受け取り方が違うのです。空気を読め、とか言いますが、それはおおよその方向性は合っている(かもしれない)けれど、全く同じではないのです。
 従って、責任の所在が曖昧になります。東芝の不祥事や製造メーカのデータ改ざん等の件は、“トップだから責任を取った”であって、厳密な意味での責任は曖昧なままなのです。空気を感じさせるその環境が悪いのか、その空気を読み取った者が悪いのか、…。答えを出すのは至難な事です。

 その一方で、空気は“多様性”を認めません。空気は異論の存在を認めないのです。
皆の意見の総意としての空気と思われがちですが、民主主義の原則である、少数派の意見にも耳を貸す、とは真逆な事なのです。

 そんな空気がどうして日本で生まれやすいのか、なのですが山本はそこに“臨在感的把握”があるとしました。
臨在感的把握とは何かプラスアルファの力があって、それがモノや記号に宿っているという感じ方です。これが空気のスタートポイントと山本は考えました。

 日本の空気ですが儒教とも関係があって、上下関係の中にも組み込まれます。

※年寄りを敬いましょう、は誰でも納得しますが、その納得の仕方は人それぞれですし、また、納得しない方もそれに対して“敢えて“異を唱えません。しかし、冷静に考えると年寄りを敬う明確な理由はないのです。自分の親を敬うのとは実は別次元の事なのです。

 そしてマスメディアは空気発生の場を広げます。
今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛さんのお話を扱っていますが、1877年(明治10年)の西南戦争にマスメディアが世間の空気の醸成に大きく働きました。

ちなみに西郷さんが率いる士族軍と官軍(明治政府)との戦いが西南戦争でした。
その戦争が起きるまで西郷隆盛は全国的に人々から支持されていました。明治政府はその事に危惧します。“西郷が危ない“となると全国が西郷を応援するのでは?という危惧です。つまり、政府は世論の動向を気にしたのです。西南戦争は世論の動向を気にした日本最初の戦争でした。その当時、日本にはマスコミが活発化する時代になっていました。明治政府はマスコミを利用することを考えたのです。

 そこでマスコミに露骨なレッテル貼りをさせました。それはまさしくステレオタイプ化です。具体的には、官軍“イコール”正義&仁愛の軍、という図式を人々に流しました。一方、西郷さんが率いる士族軍が賊軍&残虐人間集団という図式を流布したのです。そんな新聞は士族軍の悪逆非道を書き立て続けました。

※実際にはどっちもどっちでした。長州軍が行った会津への残虐非道ぶりは意外と知られていませんが、時代が時代だったとは言え酷いものです。南京大虐殺事件級の事が起きたそうです。
ちなみに、このレッテル貼りは後世の教科書にも“不平士族の反乱”という表現で残っています。明らかに曲解されています。

 そんな事があって、当時、西郷軍を応援していた人々も、『そんな事を言える空気ではない』といった状態になったそうです。こうなると人々の動きは止まります。
 物事を善悪という対立概念で把握しないで、一方を善、一方を悪と規定して、その規定が人々の思考を硬直させるのです。そして、その規定がマスコミによって広げていけるのです。

そうです。そこで行われるのは“支配”そのものです。

 ここでのポイントですがマスメディアが空気を作るのではありません。空気を拡大するのに利用される、という事です。

 大澤氏はそこに日本人の言葉の特徴を挙げます。
言葉には言葉の辞書的な意味より強い力を持ってしまう、という特徴があります。それが臨在感的把握を生み出し、そして空気を生み出すとの事です。そして面白い事に空気の寿命は儚いのです。臨在感的把握がなくなったらすぐに人は乗り換えます。空気を手放すのです。戦争中は“一億玉砕”とか言っていても、戦争が終わったら多くの人は直ぐに“アメリカ”とか“民主主義”を唱え始めるのです。

※大澤氏によると“アベノミクス”も臨在感だと言います。)皆(やマスコミ)が言うからそう思うだけ、との事です。

「臨在感的把握」とは「何かプラスフルファの力がモノや記号の背景に宿っているという感じ」だそうです。誰も望んでいない、そして実現するはずのない「一億玉砕」などもそうしたスローガンとして発せられました。その後の「一億総中流」とか「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などもそうしたものでしょう。そして最近の「一億総活躍社会」もそうかもしれません。
 政治家がスローガンを掲げた時は疑う事が重要だと思います(中島氏)。

 今の日本の政治は空気のつくり合い合戦みたいです。大きな空気を作った方が勝ち、となっています。
 マスメディアは空気を拡大していますが、そのマスメディアも空気を読んでいます。
 そして空気の変化も早くなっています。IT技術の進化というかSNSの進化がその背景にあります。情報の寿命が短くなり、情報は咀嚼というよりも感性にて処理されます。感性とは各自の持つステレオタイプです。各自の持つステレオタイプがSNSを通じて干渉し合う時、その干渉を安定させるのが空気です。

 空気とは人々が自分自身を安定・安心させる為の処世術で、科学技術がいくら進歩しても残るものです。

 山本は『「空気」の研究』の中で、空気に対抗するものとして“水”を挙げています。単なる比喩ではなく、水とは“話に水を差す”の水です。山本は“水とは通常性(常識)”と捉えています。
ただそうなのですが、水と空気とが一体化したのが日本人の意識構造です。水は空気を一瞬冷ますだけで、その水も次の空気を生みだします。

 「空気」の文化の他に、日本には「水」の文化もある。
「水をさす」ように働かず、「水に流す」法にばかり作用している。
これからも日本は、大気汚染されたこんな「空気」に支配され、もっともっと酷い国家になってゆくのでしょうか。

※本当はメディアは水でなければならない、というのがこの場の100分deメディア論の識者の方々の総論なのですが、皆さん、お忘れかもしれませんが、メディアは儲けなくてはならない、そこに大きなジレンマがあります。

 ただ民主主義とは多数者専制の代名詞ではない。

 政治の議会では多数決という数で牛耳られ、少数派との熟議によって、よりよい解決法を探るというの、本来の民主主義という姿は微塵もない。
安倍政治の暴挙はその点を忘れている、と思います。
 そしてもっと最悪なのは、モリカケ問題で、本来なら国会で「事実かどうか」を議論するまでもなく、安倍と言う強権手法が生み出した「忖度」によって行政が歪められているのにも関わらず、官僚たちは進んで「忖度」し、自民党の連中たちは、その安倍を諫めることなく、「空気」を読んで安倍を支え続けている。

 これからも日本は、大気汚染されたこんな「空気」に支配され、もっともっと酷い国家になってゆくのでしょうか。
  高橋さんは、権力に対抗する側もそうで、「空気」対「空気」になってしまうと何が議論されているのか分からなくなってしまうと話していました。
 謎の「空気」に対抗するには、通常性や常識という「水」が必要ということなのですが、その「水」も「空気」になり得るもので、そこに日本人の弱さがあるということでした。新しい「水」はまだ見つかっていないそうで、他にも様々な視点があるということを、メディアは提示し続けるしかないそうです。

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