「記憶」って
大学生の頃、たしか2年生の夏休みの制作課題として「記憶」というテーマが出題されて、2ヶ月もの間悶々と「記憶」と向き合っていました。でも、向き合った割に大したアイデアが出てこず提出日は迫り、「記憶にございません」という一躍流行語となった昭和の大事件・ロッキード事件を使った作品を作りました。
提出時にはみんなの前で作品をお披露目するのですが、この授業は、というかこの先生の授業は、どれも作者本人には喋らせず、他の学生たちがまずその作品を見て自由に発言するというもので、作者の意図と他者の感想がマッチするかも同時に学ぶ場でもありました。
「デザイン」とは、他者との共有・共感があってこそ活きる、ということなのでしょう。それを痛いほどに思い知ったのがこの「記憶」課題です。
私の作品は、「記憶」の言葉遊びなだけで、身体と精神にとっての「記憶」とはまったく異なった、勘違いな表現物だと同級生にあっという間に見破られました。そして最後にはその先生から「そういうことだよ、○○(私の旧姓)」の一言で終わりました。
なんて、惨め・・・
これで騙せると思っていたのは誰でもない自分自身にだけ。そんなこともあり、以来、身体や精神による「記憶」とはどんなものかを、その先20年以上にわたって考えさせられて、今日も「記憶」が私の心と体を走り回っています。
そんな「記憶」の記憶。私のしている思いふけるということは、きっと「追憶」という行動なのでしょうが、追憶というとなんか未練がましい響きがするので、何かを見たり聞いたり嗅いだりした他愛ないその端っこのことからシュルシュルっと連なって湧いて出てくる「記憶」の話を、思い起こした順にnoteに記していってみようと思います。
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