失われた10年と、出口のない文章
週末、CINRAが主催する"NEWTOWN"というイベントに行ってきた。
CINRAを「カルチャーを扱うWEBメディア」としか言いようがないように、このイベントもカルチャーのイベントとしか言いようがないくらいごった煮状態で、主催者の母校であるという会場は、とりあえず歩いていれば何か面白いものがあるような空間になっていた。
その目玉イベントの一つであるトークショー。僕は柴那典さんと武田砂鉄さんのライター講座、そして柴那典さんと宇野維正さんと田中宗一郎さんによる2017年振り返り対談、Spincoasterの野島さんとDIGLEの西村さんによるストリーミング時代の音楽の聴き方対談に足を運んだ。一つだけ聞くよりも、3つ全部聞くことで色々と見えてくるものがあるような気がした。
その全てにおいて感じたのは、今の時代における"批評"というものが意味を失っているように見えるということ。
「批評=物事の良し悪しを議論する」とすれば、それは例えば自分が今まで知らないものと出会うために使うものだった。毎月音楽雑誌を立ち読みしては、そこに掲載されたレビューを読み、良さそうなものをピックアップしてTSUTAYAでレンタルしに行った。ネットを使いこなせるようになってからは、様々な批評を読みながら同じようにTSUTAYAに行った。
柴さんと砂鉄さんのトークの中で、「洗脳力」という言葉が議題に上がった。
僕がTSUTAYAに行くまでの間、僕の中にある情報は批評のみであり、その批評から得た「聴いてないけど/見てないけど、これは良いものとされている」という感覚を原動力にして、TSUTAYAに向かっている。更に、その作品に触れた時、批評から受けた印象とはズレがあっても「一応お金は払っているし、僕が間違っているかもしれない」ので、どうにか良さを探ろうとする。
つまり、批評による洗脳があるからこそ、未知の文化に触れ、理解することが出来た。しかし、YouTubeの台頭により気軽に音楽に触れる事が出来るようになり、その洗脳期間は少なくなっていった。とはいえ、ゼロ年代後半から10年代前半までは、それはあくまで原動力として機能した。
野島さんと西村さんのトークショーでは、「Spotifyでいかに良い音楽と出会うか」という紹介が行われ、Spotifyのレコメンデーションエンジンを使ったプレイリストの紹介等が行われた。
ストリーミングサービスとSNSが定着しつつある10年代後半において、未知の音楽を探すのは非常に容易になりつつある。自分にとって快適な空間をネット上に作る事が出来るようになったため、「自分が好きそうな未知の音楽」をSpotifyやSNSが勝手に教えてくれるようになったからだ。無理して批評に触れなくても、心地よい音楽に一瞬でアクセス出来る。
そうでなくても、今やアメリカのポップ・アーティストは時代に合った音楽を作る術を覚えたため、実際に"Shape of You"が大ヒットしたり、"Despacito"にJustin Bieberが参加するようになった。Taylor Swiftの新作は、あれはもはや音楽作品というよりは"Taylor Swift"という一つのエンターテイメントとして捉えた方が良い。
一方で、今の時代は創り手にとってはこれほど自由な時代はない。テクノロジーの進化で制作環境は簡単に手に入り、人脈は簡単にネットで構築出来て、Spotifyにも簡単に登録出来る。映像だってアマチュアにはVimeoがあるし、プロにはNetflixがある。自由に創作するフィールドは広がっている。
そんなわけで良い曲にも良い映像にも、最新の動きにもすぐに出会えるようになったし、その量が増えたところで払うお金は変わらない。
要は受け手にとってみればインプットし放題だし、シンプルに時間が無い。
柴さん、宇野さん、田中宗一郎さんの対談でも、「インプットが楽しすぎてアウトプットする気が起きない」「ヤク中と同じ」という発言があったりした。
問題があるとすれば、この動きを理解出来る人は今の日本にどれくらいいるのだろうかという事だろう。
簡単に聴けるという事と、良い物に触れたり最新の動きを把握出来る事はイコールではない。日本では前者は完全に定着したが、後者はそうではない。
冒頭で、「とりあえず歩いていれば何か面白いものがある」と書いたが、少なくとも歩かなければ何も見えない。そして今は歩かなくてもそれなりに快適でいられる。
今年のサマソニで、文句なしのヘッドライナーのはずだったFoo Fightersのステージにおいて、"Wasting Light"(2011)以降の楽曲の盛り上がりが、日本人客と外国人客の間で明らかに差があったのは、「外国人はノリが良い」というステレオタイプだけが理由だけではないだろう。
では、批評が意味を失った時代に、どうやって原動力を生み出せば良いのだろうか?「何となく良いもの」に簡単に出会えても、それをどうやって理解してもらえれば良いのだろうか。個人的には、「何となく」を言語化して、それ自体をエンターテイメント化するしかないのではないかと思う。
しかし、再び柴さんと砂鉄さんの対談が脳裏をよぎる。
「受け手にとって気持ちの良いものだけが受け入れられ、そうでないものが受け入れられなくなってきている。本来は噛みごたえのある文章も必要なのに」
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