クセモノ。
言葉は使いすぎると
重みがなくなる。
前からわかっていて
何度も反省してきた気もするけど
最近ものすごく感じること。
自分はほとんどが天然ものではなく
偽りを本物に見せようとしてるだけの人間だから
とにかくなんでも加減が下手くそだ。
なにを考えてるかわからない
だけどどんな顔をしたらいいかも
わからない
だったらとにかく
笑っとけば外れないだろう。
そんなとりあえずの顔が
瞬間的に崩れるときに
視覚情報と言葉と真意との間
すべてにズレの印象を与えてしまう。
たぶん自分自身が
自分の友人だったら
少し近寄り難い←
人の背中から滲み出る
オーラだけは、嘘をつけない。
「在り方」が不自然なんだろうな。
そしてどうしてか
所詮人工物のかたまりだからか
言葉以外ではなにも伝わらない
(むしろ逆の意味で捉えられていることも多く
なかなかしんどい)
そして自然と言葉が増え、
そしてどんどん重さをなくしていく。
もともと言葉がうまくない人間が
熱意か装飾を武器にしたところで
高が知れている。
ほんとうに思ってること
ちゃんと伝えたいと思ったときほど
自分の中に抱えていよう。
「わかってよ」
「気づいてよ」
そういう時の実際の心境って
結局スーパー自分中心の
この二つでしかないことが
ほとんどだ。
昔のように、隠さず抱える。
それが今現在の正解な気がした
知らぬ間に誰かの中で
誤解が生じていたとしても、
それはそれでタイミングが来れば
そのうちどうにかなっていくもの。
伝えなければ思っていないのと同じ。
感謝の言葉・謝罪の言葉に関して
自分が心に刻んでる大切な言葉。
だけど、伝えなくても
ちゃんと思っていること。
わざわざ人に渡さなくても
その事実を自分だけがわかっていれば
いいことって、結構ある。
これは一種の諦めに入るのかな。
だけど諦めから生まれるものって
間違いなくある。
ネガティブな意味でなければ
諦める=明らめる、だからね。
そして大体こういう感じで
一旦手放した状態になったとき、
いろいろとうまくいきはじめる
32歳の、薄っぺらい経験談。
今日は頭がスッキリしていたのか
ただただ暇だったのか
2本も書いてしまった。
(きっと後者だ)
そんな感じ。