第27話 依存心の強い対象者を誰が支えるか?(昨日の続き)
昨日は公的な医療・介護のシステムで支えることが望ましくない対象者がいるという話をしました。
そもそも治療する気がない人、漠然とした不安を解消に来る人、自立心がなく依存的な人、フリーライダーといった人たちは、公的な資源でまるっと支えようとすると破綻をきたすよ、資金的にも人材的にもといった内容でした。
では、そういった人たちは誰が支えるのが適切か?誰も支えなくて良いというのは無いと思います。現状ではNPOで支えようとしている団体が多くあります。そういった志のある非営利団体がある程度の自由度をもって支えることは有効だと思います。なぜなら個別性が高いから。枠組みにはめて支えようとしても難しいケースが多いからです。
あとは個人で支えられる人が増えるといいなと思います。正確には個人が個人を支える為の仕組みができると良いなと思うのです。個人が向いてるなと思うのはフットワークの軽い小回りが効くこと、相性があること、支える側の志が高いこと、チャレンジできること、などなど。
しかし、最も理想的で望ましいのは社会的にそういった人たちを受け入れられる土壌を醸成することです。つまりは地域から孤立させないということ。
なぜなら社会的に不適合で孤立してしまったからこそ、公的な医療・介護インフラなどの『受ける権利が保障され、拒まれない』サービスに頼らざるを得なくなった結果としての現象だと思うからです。
地域というのがこれまた定義が難しく厄介なのですが、公的なサービスやNPOの介入はあるにせよいわゆる一般の人たちで形成され顔の見える規模の社会単位のことかな? そういった社会に“どんな人であっても”拒まれることなく、“どんな人であっても”役割があって、“どんな人であっても”生きる意味を見出すことができれば最高です。
歴史的にはヒトが集団を形成し社会ができると、統治する者が出現し、ヒエラルキーが生まれ、妬み、恨みなどの負の感情など、あらゆる要素によって、“拒まれる者”が出現してくるのが常でした。拒むこと、拒まれる恐怖を植え付けることは集団を統率し維持していく為に必要だったのではないかと考えます。そういった人達がいると集団が滅びる危険性があるからですね。組織に献身できなければ進歩しないと。でも現代はもう違うのでは?そういった人たちを拒まなくても集団が滅びる危険性が少なくなっているのではないかと思いませんか?農業技術は進化し、物流は早くなり、知識も情報も手に入りやすくなり、イノベーションの速度は加速し、距離を越えてつながりやすくなったいま、何人か変な奴がいたって集団が食いっぱぐれることは無いし、内部崩壊なんてしないでしょう。そもそも地域の定義も変わってきています。そろそろ原始的な本能での拒絶から卒業して、いろいろな人を受け入れる地域社会の器を広くしていくフェイズなのではないでしょうか?
なんだか脱線しかけていますが。つまりは、
『器が広く優しい地域社会を形成することは社会保障に関する問題を色々と解決するよ』
ということが言いたかったんです。昨日の文章だけだといろいろと誤解をさせてしまうかもしれないなと思いまして、自分の理想を述べてみました。
自分の考えている新しいサービスはそういった優しい社会の醸成に寄与できると考えていますということも申し添えておきます。それではまた。