土器を見に行く 辰野美術館 その1
開き直って今日も土器見学。とうとう3日連続だ。
箕輪町の博物館は改装中なので、ひとつとばした先の辰野美術館へ。
とにかく土器がいっぱいあったので、ひとつの記事にまとめるのは難しく、とりあえず今回は、最もスター性の高いこの土偶を。
(今回の記事もそうですが、それぞれの土器土偶につけられている名前はできるだけ書かないようにしています。
意地悪とかではなくて、自分が書いたり読んだりするうちに、どうもイメージが固定されてしまう気がして。悪意はないのでどうかご容赦ください)
土器だ土器だ言ってたのに、早速道を踏み外して土偶に見入ってしまった。
でも、しょうがない。やっぱり実物の魅力は本当にすごい。
しかし縄文生成物、実物と写真はびっくりするくらい違います。どんなプロが撮った写真でも、やはり違います。
そこに置いた彫刻と、その影くらい違います。だから写真で見た縄文生成物は、影だと思うくらいがちょうどいいと思います。言わずもがな、当記事の写真も然りで。
仮面の目線がほんとうに「目線」。ダイレクトすぎてかっこいい。
線の両端に黒目っぽく、まるい小さな穴がある。でも、鼻の穴も口もぜんぶおんなじようにポチッとした穴。
目が4つあったら大変だから、おそらくこの目は、寄り目と離れ目の両端をエポック社のアイスホッケーゲームみたいにガチャガチャとスライドする仕組みだろうか。メカニカルに移動する目ん玉。たまらない。
ちょっと恐ろしいのは、どうやら「目線」の切り込みの下に何かあるみたいなのだ。横から見ても、仮面と顔はひっついているので、外からはぎりぎり「何かある」のがわかるくらいだ。現場で見てるとついつい仮面をはがしたくなるけど、そこは我慢。大人だもの。
あと、肩がめがね橋みたいなのだ。
どうしても写真だと立体感が8割減になってしまってもどかしい。言葉で補足する。
ここの部位、実際に見ると、なんかちょっと「もぎたくなる」んですね。
土偶はもいで放り投げるものだと聞いたことがある。だとしたらこのデザインはまったくもってお見事。本能的にもぎたくなるのだ。そして食べたくなるのだ。ブルボンのチョコリエール的なのだ。でも食べられないからその場に捨てる。そこで自動的に任務完遂なのだ。
(なんの任務かわからないけど)
土器もうまそうだが、土偶だってうまそうなのだ。
あとこの土偶、すごくいい感じでのけぞっているんだけど、写真だとその「のけぞり」の感覚がどうしても出ない。
現物見ると、そののけぞり具合がすごくカワイイんです。「どーだ!」って感じで。
そしてこの土偶の本懐はもう、尻です!しり!このおしり!
ちょこっとだけ!ちょこっとだけおしり!
悶絶する。もう大騒ぎだ。なんなんだこのかわいさは。
他の土偶の写真で、乳房がとてもささやかに描写されているのはよく見るけれど、まさかおしりまでとは。
もう、カワイイやら面白いやらで大変だ。
もう大変にカワイすぎて最高にすばらしいので、しばらくこのおしりを見ていたら、こっちの妄想も機関車のように驀進してしまった。
たとえば。
土偶も土器と同じように、女性がつくったと聞く。
そしてこの時代でも、女性はきっと「対象」にされてしまっていたはずだ。
しかし、当時の女性はメディアを持っていた。土器と、土偶だ。
ここからは邪推だ。
当時の女性たちは、メディアを使って、男性の対象化目線をコントロールしていたのではないか。
土偶が女性であるなら、もし作者が男性だった場合、ついつい、いわゆるグラマーな体型にしてしまうはずだ。そりゃもう、興味のある部位をでかくするのはしょうがない。何万年経っても男は男。ばかなのだ。
しかしメディアを牛耳る女性たちは、興味の対象部位を、むしろ恣意的に小さく、かわいく、おもしろくしたのではないか。
土偶が、男性にとっての「エロ本・エロビデオ」になってしまうことを意図的に避けたのではないか。極端にカワイかったり、おもしろかったりすると、男性の性欲は落ち着いてしまう。
そうすることで、イメージ上の理想像を女性に押し付け、さらにはそれを対象化してしまうような、現代まで続く性対象の病理を食い止めていたのではないか。
縄文時代の女性は、とても魅力的だったと聞いたことがある。これはおそらく、性的な意味だ。
で、そうありつづけた要因は、なにも造形的に美人だったってばかりではなく、女性たちが上手にメディアコントロールを続けて、男性の性的イメージを主体的に微調製し続けていたのではないか…という邪推。
なんか土偶の「カワイイ」は、いろんなものをウジャウジャ内包している気がして、なんだか胸の内側をカリカリ掻かれているような興奮がある。「カワイイ」が埋蔵してるものは計り知れない。
しかしこれは、いくらでも妄想が捗る!
やっぱ縄文生成物はすごい。妄想ダダ漏れ。
自分がチャットGPTになったような気になれる。