「雅楽は音楽ではない。」
はじめに
3人組、こんこんちきディスクガイドです。記事更新のため定期的に編集会議を行っています。ただ、会議後の雑談が膨らみに膨らんで、トピックのぶつけ合いの場になってしまいました。しかも振り返ってみると、そこそこ情報量のあるトピックを毎回これのためだけに用意して議論していることに気が付き始めました。目的外の雑談なのに。そこで、会議録をも一つの成果物として公開することにしました。
前回の議事録はこちら。
ディスクガイド本編はこちら。
登場人物
phillsy:雅楽経験なし。先日とある演奏会を鑑賞。クラシック畑。
中野ゆざめ:雅楽経験なし。今回は俯瞰役。バンドサウンド畑。
Induction_Heating:雅楽経験者。持管龍笛。クラブミュージック畑。
第2回:「雅楽は音楽ではない。」
(Induction_Heating)演奏会どうだった?
(Phillsy)初めて雅楽聴いたけども、素直に聴けなかった。音楽としての限界を見た気がする。もちろん芸術として完成されているなと感じられる点もあったけれど、音楽としては先が見えなかった。
(Induction_Heating)というと?
(Phillsy)なんだか窮屈だった。演奏前のリハ?軽い音出しのほうがむしろ表現を感じるくらいに。というのは、芸術って方向性や幅はどうあれなにか新しいことをするってことだと思うし、そこに演奏者の表現があると思う。落語でも歌舞伎でも自由で独創的な雰囲気を感じるけれども、雅楽はその余白がかなり狭く設定されている気がする。
(中野ゆざめ)音楽として変化がないんだね。他ジャンルとの接触もあんまりなかったりする?
(Induction_Heating)演奏者の話だと、たとえば宮内庁楽部の方は西洋音楽も一通り経験してたりするね。でも、雅楽自体はその体系が10世紀くらいにほぼ完成したと言われていて、他ジャンルの影響で変化したとかはないと思う。同じ日本の音楽でも、いわゆる三曲合奏は西洋音楽の要素というか、楽譜も一部記法を取り入れたりしていた記憶がある。
(Phillsy)似たような理由で自衛隊音楽隊の演奏も好みじゃない。保守に走ってて。
(Induction_Heating)その点は、経験者だとどこが自由にできるポイントなのかがわかるから表現を感じられるし楽しみ方もでてくるんだけど。じゃあ一般の方を呼ぶ演奏会の意義とは、となってくるね。
(中野ゆざめ)音楽が全部そうあるべきなのかな。表現が必要ない音楽の場もあるんじゃないかな。
(Phillsy)でも電車の発車ベルですら独自性を出そうとするわけで。自分の視野の範囲でいうと、一般には保守的だと思われていそうなクラシックですら実は攻めてるし。例えばこれ。この前生で演奏聴いたとき、音楽とか楽器の枠を超えた表現に感動した分、雅楽の窮屈さがひっかかったのかも。
(Induction_Heating)雅楽の音楽表現の狭さについては自分も練習始めて2年目後半くらいでなんとなく気づきはじめた。結局雅楽は儀式音楽から脱出しなかったものなんだなという実感がある。自分が所属していた団体を今思い返しても、特に音楽経験者とかで別の音楽に触れている人ほどそれに早く気がついていたかも。
(Phillsy)なるほど。じゃあ一回聴いただけでそう思った私は演奏を斜めに構えて聴きすぎたのかもね(笑)。いくつかの団体の演奏も聴いてから判断したほうがいいのかもしれない。
(Induction_Heating)そうはいっても、初見の人すら感じることなんだから、雅楽の今後にかかわる問題の一つとしてそこまで外れた感想じゃないのかもしれないね。
(今回の書記:Induction_Heating)
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