【喉元過ぎれば熱さを忘れる:分度を忘れず】
2024年は売上は過去最高であった為
驕(必要以上に贅沢なこと)
倹(無駄遣いをしないこと)
を忘れていた自分に気づく。
2023年と比較して、二宮尊徳翁の言葉が少ない。
基本に立ち返って、
驕を諫め
倹に勤しむ
ように、今より態度と行動を変えよう。
二宮翁夜話 三十六 貧富驕倹は、各自の分限を以て論ずべし
驕りと倹約の基準
先生はおっしゃった
世間の人は、貧富や驕(必要以上に贅沢なこと)、倹(無駄遣いをしないこと)について、口では簡単にいうが、何をもって貧と富、驕と倹を区別するのか、はっきりしていない。
天下には、もとより大も限りがなければ小も限りがない。
十石を貧しいといえば、無禄の者もいる。
十石を裕福だといえば、百石の者もいる。
百石を貧しいといえば、五十石の者もいる。
百石を裕福だといえば、千石や万石もある。
千石を大と思えば、世間の人は小旗本だという。
万石を大と思えば、世間の人は小大名だという。
それなら、何によって貧富や大小を論じたらいいのだろうか。
それはたとえば、物の売買のことを考えてみたらよくわかるだろう。
物と値段とを比較してこそ、安値と高値を論ずることができる。
物だけで、安い高いはわからないし、
また値段だけでも安い高いを論ずることはできない。
これが世間の人が迷うところなので、詳しく説明してみよう。
たとえば、全体の収入が千石の村に戸数が百戸あるのなら、
一戸につき十石という計算が成り立つが、これは自然な数である。
これは貧でもなく富でもなく、大でもなく小でもない。
どちらにも偏っていない"中"だといえる。
この〝中〟より不足していることを貧といい、
この〝中〟を超えていることを富という。
そして、この十石の家が九石で生活していくことを〝倹〟というし、
十一石で暮らすことを〝驕〟というのだ。だから、私は常にこういうのだ。
「〝中〟は〝大小"や"増減〟の基準となるところである」と。
したがって、貧富は各村の石高の平均を定めて、
驕倹はそれぞれの分限をもって論じるのがいいだろう。
その分限によっては朝夕うまいものを食べ、きれいな服を着ても、
豪華な屋敷に住んでも、それは〝驕"ではない。
また、分限によっては米の飯や茶、煙草も〝驕〟になることがある。
いい加減に驕倹を論じてはならない