持ち回り
明日10月27日は衆議院選挙の日だ。
20歳になって以降、一応人並みに選挙権を行使してきたが、はっきり言って選挙のたびに候補者を選ぶときの自分なりの基準がコロコロと変わっていたような気がする。物価高やデフレや税金とか経済関係のことを重視したときもあれば、外交・防衛のことを重視したときもあったし、治安や社会福祉のことを重視したときもあった。そんなふうに一本筋の通った基準がないために、投票用紙に書く名前が与党政治家だったり野党候補だったり、ガチガチの保守派だったり左翼系議員だったりした。
さすがに政見放送でヘンテコリンなパフォーマンスやクレージーな演出をするような候補の名前は書かなかったが、いわゆる無党派、浮動票を持つ有権者だった。おまけにテレビの選挙特番に出てくる落選した議員の顔を、酒を飲みながら見て楽しんでいるという悪趣味な有権者だった。
選挙の投票率が年々下がっていると聞く。私のような低レベルの有権者ばかりが多くても困るが、選挙に行く人間の絶対数が減るのも考えものだろう。近い将来、投票率低下を防ぐために選挙に行かなければ罰金を取られるという法律が制定されたりはしまいか。そして国民の政治や選挙に対する無関心に嫌気が差し、政治家のなり手がどんどん減っていって、自治会や町内会の役員の持ち回り制のように誰でも必ず一度は政治家をやらなければならなくなるということになりはしまいか。
まさかそんなことはあるまいと一笑に付すのは簡単だが、裁判員制がいつのまにか導入されてしまったことを考えると完全な杞憂とも言い難い。ある日、突然国会が解散され、その翌日赤紙みたいなものが自宅に送付されてきて立候補者になることを強制され、無所属で出るかどこかの政党に入党して出るか公認候補として出るか決めさせられ、街宣車に乗って町を走り回り、街頭で野次られながら演説をすることになるのだ。そしてテレビカメラの前で敗戦の弁を述べ、意地の悪い評論家やタレントやコメンテーターから厳しいツッコミを受けるのである。
嫌だ。そんなことになるのは絶対に嫌だ。とはいえ、法律でそうなると決まってしまったらどうしょうもないだろう。私はもういい年をした老人だからと言って拒んでも許してはもらえないだろう。
老人なんだろ? 政治家にはピッタリじゃないかと言われるのがオチである。