A地点からB地点まで
普段は車を使うのだが、天気が良くて体調のいい日は徒歩で自宅から自分の店まで通うようにしている。
恥ずかしながら、いつ廃業してもおかしくないようなちっぽけな店を細々と経営している。だから昨今のガソリン高騰の社会情勢を無視できず、できる限り車を使っての通勤は控えるようにしているのだ。
一時間近くの道のりである。店は朝8時半から開けているので徒歩で行く場合、自宅を出るのは少なくとも7時半になる。もっとも、仕事の都合でもっと早く出なければならないこともある。
歩きながら眺める街並みは車窓をよぎる光景とはまた違った印象がある。いつも直進して通り過ぎる交差点も、その左右に伸びた道の向こうに見える家々は見知らぬものが多い。また、運転席から見かける家の窓やドアの色とか装飾がすぐそばを歩いて見てみると思っていたものと違っていたり、意外と精巧でゴージャスだったりする。和風の家だと思っていたら洋風だったり、小規模なワンルームマンションかと思っていたら一戸建ての家だったりする。
大げさなようだが異国に迷い込んだ感覚と似たものがある。馴染みのある街が初めて訪れた街になるのだ。だがそれは決して不安や居心地の悪さを醸し出すものではない。錯覚だとわかっていながらも、むしろその初めての街の住人になってみたいと思うほどだ。ついフラフラと横道に逸れ、店とは別の方角に向かって歩いて行ってみたくなったりもする。
モータリゼーションや公共交通機関の発達によってある地点から別の地点へ移動するときの時間は短くなり、移動する人間はその過程についてほとんど意識しなくなる。A地点からB地点へ移動した場合、その人間の意識の大半を閉めるのはA地点もしくはB地点の近辺の風景や人々だ。私ももちろんそうなのだが、経済的事情から自宅と店とを歩いて往復することが多々ある私は、否が応でもその2点の間に位置する街並みやそこに住む人々のことに意識が捕われてしまう。
あそこの家にはどんな人が住んでいて何をして生活しているのかとか、あの古い家はいつごろ建てられ、そこに住んでいる家族はどんな人生を送ってきたのだろうかとか、考えてもしょうがないこと、想像するとキリがないことを思い浮かべてしまうのだ。
自分がもし「富岳」のようなスパコン並みの頭を持っていたら、そういったとりとめのない諸々のことをすべての家並みや街角にわたって思い浮かべてしまいたい。そしてそれらの思い浮かべたことを全部覚えておきたい。そんな狂人めいたことを考えたりすることがある。いつもと違う印象の街を見てその街の住人になってみたいと思う原因はそこら辺にあるような気がする。
もっとも、それは私個人の自己分析である。客観的に見れば、それは私が徘徊老人と化すであろう前触れということになるかもしれないが。