感謝されたあとに、生まれた目的が腑に落ちた。

趣味で創作活動をしている。
絵を描いている瞬間と歌を歌っている瞬間、瞑想状態のようになる。
特別な感覚ではなく、おそらく多くの人が日常的に似たような感覚を覚えるはず。
集中することで諸々想念が消える。
その間、自身の内から発せられる波のような快感が増幅を繰り返す。
しかしながら興奮と共に深くリラックスもしているという、なんとも不思議で心地良い状態。
作業を終えた後の爽快感たるや…。
私の場合、それが絵と歌です。加えて、文章もちょこっと?

取り柄のない自分でも、それらに関しては他者から嬉しい言葉を頂ける。
特に絵は、小学校時代からいつも賞に選ばれたりしていた。
褒められたくて頑張っていた訳ではないけれど、褒められるとやっぱり嬉しいものです。

楽しく取り組み続けている趣味たちだけれど、それらを専門的に学んだり、仕事にしたいと考えたことは無かった。
純粋な「好き」という感情だけでそれらを楽しめなくなりそうなのが怖かった。
「好き」を「好き」のまま、それだけの感情でずっと残したかった。
ご飯を食べて行けるほど秀でた才能は無いと決め付けて、一歩踏み出す勇気を持てなかった。
決め付けたのは私自身。

一度知人からの紹介で、イラストの依頼の話を頂いたことがあった。
やってみようと意気込んだものの、いざ取り組んでみるととんでもなく苦痛だった。
興味の無い対象物を大量に描かなくてはいけない状況は苦行そのもの。
言わずもがな、作業自体は絵の練習にはなる上、人の役にも立てる。
だが残念なことに、楽しくない練習に耐えられる根気強さは私には無かった。
たくさんの下積みをされてプロになった方々から、お叱りを頂いてしまう発言だけれど…。

またある時は、絵本作家デビューを謳う賞に応募。
「まあやってみようかな」くらいの気持ちで(絵は真剣に取り組んだ)。
聞くところによれば「見込みがある人には担当者からすぐに連絡があり、残念な人には連絡が無い」という。
なるほどそういうものかと思いつつ、当時絵本作家になりたかった私は絵を描いた。
その時描いた絵は、今でも自分の中で大切な一枚となっている。
完成した絵を出版社に送ると…なんと、翌日に担当者から連絡が来た。
事前に「見込みがある人には…」という情報を頭に入れていた私は舞い上がり、すぐにお返事をしようとしたのだが、ひとまず一旦保留させて頂き、改めて自分で情報を調べ直してみた。
そして、それがよくある自費出版の罠である可能性に気付き、実際その出版社に苦情を寄せる人達も少なからずいることを知る。
丁重にお断りしたのだった。

とまあこんな具合に、私は基本的に小心者であり、チャンスが来てもやる気が出なかったりウジウジする。
本気で腹を括っていないのだろう。
物事に対して本気になることを恐れているのだ。
「私にそれが出来るのか?いや、出来ない」と自分で自分を否定してしまう歪んだ思考の癖。
しかしそれでも良いじゃないか、趣味で楽しむのでも良いじゃないかと、絵も歌も無理の無い範囲で楽しく取り組んでいた。
今のご時世ありがたいことに、ネットにアップすれば多くの人の目に触れることが出来る。
見知らぬ人から僅かながら反応を貰えれば、それで幸せだと思っていた。

ところがある時期を境に仕事が忙しくなり、絵を描けなくなってしまった。
それまで毎日5、6時間ほど描いていたにも関わらず、全く絵を描かない数年間を過ごすこととなる。
そのうち絵の描き方も忘れ、描きたい欲も消えて行った。
なにか描かなきゃ、でも時間が無い、それにもう私には描けない…と、スランプのような感覚に苛まれ、絵と向き合うことに苦痛さえ感じるように。
プロでもないのに、こんな感覚になるなんて。

何が描きたいのか分からないという状態は、それまで経験したことが無い感覚。
私にとってごく自然な欲望の一つだったのに、突然「無」になってしまったのだ。
そうして大切な趣味のひとつを失った私が、事の重大さに気付くのには時間を要した。

何故だか分からないけど心が晴れない、という精神状態が数年間続いた。
希死念慮に苦しむ日々だった。
それは絵を描いていないことが根本原因では無いにせよ、確実に間接的ダメージになっていた。
絵を描く行為は私の諸々を調整する役割を担ってくれていたのだ。
自覚出来るメンタル面から、自覚出来ない潜在意識の領域にまで余波があったと思っている。
スピリチュアルな表現になってしまうが、自身のヒーリングとして私には必要不可欠な行為だったらしい。
瞑想状態のようになることがその証で、とんでもなく癒される。
昔絵を描いていた頃には解らなかった。
絵を描けなくなった時期にも解らなかった。
再び絵を描き始めた今、やっと解ったのだ。

もうすっかり絵を描かなくなってから数年経った今年…、また絵を描き始めたきっかけとなった出来事が起こる。
それは愛犬との別れ。
今までも何度か経験した別れだが、今回の別れは特別だった。
愛犬は治療法の無い病を患っており、いつ死んでもおかしくないと獣医から言われていた。
藁にもすがる思いで愛犬のために出来ることを全力でやると決め、実践した。
犬の身体や栄養、病へのアプローチの可能性などを勉強した。
獣医に頼るばかりではいけない、この子を守るのはまず私なのだという意識が芽生えた。
遊びにも行かない。少しでも愛犬と一緒に過ごせる時間を大切にしたかった。
愛犬は、応えてくれたと思う。本当によく頑張ってくれた。
毎晩寝る前に、宇宙一愛してるよ、と語り掛けると
目を細めて耳を後ろに垂らし、心地良さそうな顔をする彼女が今も胸に焼き付いている。
物事に懸命になれず流れるように生きていたウジウジ小心者の私に、「本気で取り組む」ことを身体を張って教えてくれたのが彼女だった。
人生で初めて、覚悟というものがいかに人の原動力となるかが解った経験だった。
愛犬が病気にならなければ分からなかったことがたくさんある。感謝でいっぱい。

愛犬の死後。
ふと、「彼女を絵に描こう、描かなくてはいけない」ともう一人の自分から言われた気がした。
確信めいた衝動に突き動かされ、今まで忘れていたものを取り戻すかのように、夢中で絵を描いた。
次から次へと欲望が浮かぶ喜びを久し振りに体感した。
「この構図の方が映えるかな?」「この色を散りばめて統一感を出したい」「このモチーフを活かすには…」など、アレコレ考えを巡らす時間。
まるで泉のように尽きることは無い、忘却の彼方へと追いやられていた欲望たちだった。
仕事があるため時間はかかったものの、途中で放り出さず、完成させることが出来た。
やっと戻って来れた、そんな感覚だった。
私は今生きているのだと、そんなことまで感じて涙が出た。
愛犬の死が無ければ、再び絵を描き始めることも無かったかもしれない。

そうして完成した絵をネットにアップした時、私は更に感動を味わう。
その絵を見た数名が、「この絵を見ると涙が止まらない」と伝えてくれたのだ。
ちなみに、その絵は一見すると悲しい絵ではなく
自然の中に、愛犬をちょこっと登場させただけの風景画である。
そんな絵に対して、「涙が止まらない」と。

私は絵を描く上で露骨な表現を避ける。お涙頂戴は苦手で。
ただ単に、夕焼けの中に佇む愛犬…私の愛おしい宝物を、大切に描いただけ。
それなのに、絵には描かなかったこと…私の感情、深い意識領域まで、感じ取ってくれた人がいたことに驚いた。
大袈裟に思われるだろうけれど、言葉を超越したものを確かに送受信出来たのだ。
こんなことがあるのかと思った。
私自身も、絵を見たり音楽を聴くと涙が出るタイプなのだけど…
まさか自分が描いた絵で、それを他者から向けて頂けるとは思っていなかった。

その時感じ取ってくれたうちの一人は、私よりも随分歳上の方。
SNSが無ければ一生関わることは無かったであろう人物。
実は以前より愛犬のことで、その方に大変お世話になっていた。
その方のサポートがあったからこそ、少し長く、愛犬と生きることが出来たと思っている。
いつかなにかご恩返しがしたいと常々考えていたのだが、その方は「そんなものは要らない、犬を助けたいだけです」と話していた。

そして、愛犬の絵を見たその人は「いつか私の故愛犬の絵も描いて下さい」と言った。はっとした。
再び自分の中のもう一人の自分に指し示されたようだった。恩返しのような気持ち。
わかりましたとお返事をして、そこから数ヶ月間、今度はその方の故愛犬の絵を描く生活になった。
ウジウジ小心者の私は、顔を出さなくなっていた。

人に依頼されて絵を描くのは、一度挫折したあの時ぶり。
でもあの時とは何もかもが違う。楽しくてたまらなくて。
初めこそ見栄えを気にした絵を描きそうになっていたものの、段々と純粋な楽しさに突き動かされて描くようになっていた。
その方に喜んでもらえるよう、こっそりとモチーフを散りばめる作業もワクワクが止まらない。

亡くなった存在を描いて欲しいと言って頂けること。
それは宝物を見せてもらえた時のような、
大切な思い出をお裾分けしてもらえた時のような……、
勝手ながら私はそのように感じ、なんて尊い体験をさせてもらえているのだろうと、心が震えた。
胸がいっぱいだった。

亡くなった存在との一番の幸福な思い出は、残された者の記憶の中にある。
第三者が描く絵というのはあくまで一瞬の切り取りに過ぎないし、私の場合架空の場所の絵であるため「過去の思い出」ではない。
ただ、絵は「今、存在を感じる手助け」にはなるのかもしれないと思っている。
「ああ、こんな場所だとこんな顔してくれるかな」
「今はこんな場所にいるのかもしれないな」
「あたたかい場所にいて欲しいな」……と。
亡くなっても愛情は変わらない。
変わらないものは過去ではなく、確かに今、存在しているはず。
目では見えなくなっても、身体に触れることは出来なくても、永遠の別れでは無いと思います。
魂は永遠に繋がっているはず。

そんなことを考えながら、その方から依頼された絵を無事に完成させた。
その方は大変喜んでくれた。
お会いしたことは無く、本名すら知らない方だけれども、目を細めて微笑みながら絵をじっくり見てくれるその人の姿がイメージされた。
そして、「君の絵は人の心を感動させる力があるから、もっと描いた方が良い」とありがたい言葉を掛けてくれた。

私にそんな力があるのか?と思った。
ウジウジ小心者の自分なら「そんな力ある訳無い」と言うだろう。
でも、ウジウジ小心者の自分が顔を出さなくなってからの絵は、確かに他者の心に響いてくれた。私はその人からのありがたい言葉を、受け取らせて頂くことにした。

生まれた目的というのは人それぞれ異なるだろう。
人は誰しも生まれる前に、ある程度それを決めて来ていると考えている。
私は絵を描くことが自分の生まれた目的の一つかもしれないと思い至った。
自分が楽しく心のままに描いた絵は、見てくれる人の元に、言葉を超えたものを伝えてくれる。
感じ取ってくれる人は多くなくて良い。
その少数の人達と出会うために、そしてまた言葉を超えた体験をするために、絵を描き続けたいと思った。

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