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翳りゆくメシア

author:松原新夜

 1

 愛用のアリフレックス16を靴墨で丹念に磨いて黒光りさせる。就寝前の日課だ。軍からの配給の話もあったが丁重に断りを入れ学生時代の思い出が一杯詰まったこいつに拘って戦場に持ち込んでいるのだ。そう初めての恋人のヌード、とあるコンテストの予選だけは通過した自主映画、大好きだった祖母の死に顔まで撮影してきた。かれこれこいつとの付き合いは二十年近くになるはずだ。特別待遇の一人用テントの中でランプの灯りを頼りに作業に没頭しながら今日着いたばかりのいままででもっとも凄惨な現場を思い起こした。確かにネロのホロコーストほど凄惨な現場はない。しかしコロモとはまったく違う。あのホロコーストにはちゃんと死体があった。山のような死体が現に存在し、私は我を忘れてファインダーを覗きリュウズを離したことは片時もなかった。コロモには死体がない。すべて灰燼に帰しているのだ。だがそうはいってもまだ半日軽く撮影しただけなので明日以降焼け残った死骸やもしかしたら無傷ではないにしろ生存者がいるかもしれない。いくら内務省の機密文書を偽造したからって壊滅的な空爆で制裁を加えてしまうものかと司令部の意向に強い疑義を呈したくもあるがまあいい。私はカンセコみたいに司令部への政治的立場からの意思表示はしない主義だしたとえ進言してみたところで懲罰を受け晒し者になるほかなんの影響力もないのであろうから無言でただ撮影の職務に徹するまでだ。続けて磨きの作業は灰や土の付着した三脚へと移った。一迅の猛烈な風がテントを揺らし吹き抜けた。外で私に声をかける男がいた。男の所属と名前はさらなる風でかき消された。緊急事態ですと男はまるで言っている意味とは正反対の落ち着き払った声で繰り返す。私はいったい隊員の誰なのか見当もつかないまま孵化する雛のようにテントから顔を出した。外にいたのは長身のため屈んだ姿勢でカンテラを翳した髭面にロイド眼鏡をかけたバイエガだった。懐中電灯を握り能面みたいな精気のない表情でまた緊急事態ですと低く呻いた。私は腕を頭と同じようにテントから突き出す。腕時計で時間を確認しナニガ起ロウトコンナ暗クテハ撮影デキマセンとわざとかしこまって職務放棄を宣った。至福の時間を邪魔されたので少し意地悪をしてやったのだ。だが案の定いつもヌボーとした態度のバイエガには冗談は通じないようで彼は訥々と事情を説明し始めた。彼の話を要約すると以下の通りだ。私も途中まで参加していた酒宴の席から第三小隊のグリフィーが忽然と姿を眩ましたらしいのだ。行方を断ったのはグリフィーばかりではなくジープ一台、葡萄酒一ダース、携帯食十四日分、マシンガン一丁、リボルバー二丁、弾薬一〇〇〇発といったところだそうだ。完全なる脱走だ。捕まえられたら厳重な処罰がカンセコより宣告されることだろう。私はいい加減テントを出て軍服をはおり胸ポケットに携帯している従軍手帖に鉛筆でバイエガの説明をカンテラのかぼそい灯りを頼りに逐一メモしながら大本営に向かう。昼間の市街地撮影時同行していたグリフィーに変わった様子がなかったか記憶を掘り起こしてみた。撮影には助手のリプケンとグリンウェルがつきグリフィーは私たち三人の撮影クルーの護衛をバーフィールドとともにしてくれていた。グリフィーは確か四月生まれで二十歳になったばかりだった。夜が明ける前に大本営で軍法会議が開かれた。クーニー大尉、小隊長コスタ中尉、副隊長ウッドラフ中尉の円卓を、先陣を切ってコロモ入りした第三小隊の面々が寝込みを叩き起こされたままの弛緩した表情を携えて囲んでいたなかに遅れてきた私とバイエガもいた。しかしどこを見回してもカンセコはいなかった。撮影クルーのリプケンとグリンウェルの姿もなかった。グリフィー捜索隊としてすでにコロモ周辺を何人かの兵士と巡回中だとバイエガが私に教えてくれた。円卓ではグリフィーと昼に撮影クルーの護衛をともにしたバーフィールドがグリフィーについて三人の上官の質問を受けている最中だった。私は低く溜息を吐いた。煙草を蒸かしながらやっかいなことになったなと頭を垂れた。今夜は眠れそうにない。


 2

 一九九九年四月二十七日の午後に電話が鳴った。コロモのKからだ。Kはくぐもった声を響かせて中学の同級生だったグリフィーが高速道路の事故で亡くなったと伝えた。君島零時は当惑した。中学に行けず家にひきこもっていたときにグリフィーから手紙をもらった。あの手紙についてグリフィーと話したことはなかった。ずっと気がかりだった。君島零時はKに大学があるので葬儀には出られない旨を告げて電話を切った。君島零時は無表情を装ってマンションを出た。

 昼間スクーリングのあと適度な疲労感に包まれ仮設図書館の閲覧席で先週と同じ文芸誌を開き入館前の幾度でも襲い来る眠気など忘れて四年前から新作が発表される度に夢中になって追いかけている作家の最新作を読んでいた。君島零時に恋人はいない。人生で冒険と呼べるものは本と映画そして音楽だった。

 上はネイビーのクルーネック、下はグレーのスラックスという出で立ちの君島零時は3号館B1の学食で晩飯をひとりかっこんでいた。周囲の食事を楽しんでいる学生は誰もが級友たちと談笑しており君島零時は一抹の寂しさを覚えた。真正面のアナログ時計は音もなく午後七時を指し君島零時の口内の里芋は音もなく砕けた。周りの二十歳前後の若々しい学生たちに憐れまれている気がした。君島零時はカリヤの定時制高校で一年、同校の通信制で五年の時を過ごし二十一歳の一九九七年三月に高校を中退して単身上京。その年の九月に二十二歳で大学検定試験に合格。翌年短大に進学するも即座に中退。同年十月通信制大学に秋期入学して一九九九年の春学期を二十三歳で迎えている。君島零時は学歴を履歴書に書く際かなりの過程を省略した。

 さっさと簡素ながらも健康的な田舎料理を食べ終えると君島零時は隣席に置いてあったサザビーズのショルダーバッグから白水Uブックス『ブエノスアイレス事件』を取り出した。食器を片づけることもなくさっそく君島零時は書店の栞をつまんで続きを読みはじめた。どれくらい時間が経っただろう。春の陽差しは翳を増して頼りなさげな天井の蛍光灯がチカチカと学食を照らしていた。柱のアナログ時計を見れば午後八時だった。一時間近く読みふけっていたようだ。君島零時は本をショルダーバッグにいつものように緩慢な動作でしまい盆に載ったいくつかの小鉢と大盛りのご飯茶碗、湯飲みをガチャガチャさせて流し場にひとつひとつ滑り込ませた。最後に薄黄緑色の盆を銀色の台に積んで学食をあとにした。地上に出ると爽やかな夜風が汗ばんだスラックスをそよがせた。節約のため三ヶ月切っていないボーボーに伸びた頭髪を靡かせて君島零時は道なりに南進して地下鉄ハンゾウモン線のジンボウチョウ駅を目指した。腕時計も携帯電話もなくいまが何時かわからない時刻に駅前に着いた。アルバイトの初賃金でケータイを買おう。君島零時はそう思いなし地下鉄の階段をまるでスーパー戦隊ものの戦闘シーンを夢想するような勢いで駆け降りた。案の定足を挫いたが翌朝腫れは引いていた。自分は最高に幸運なんだと思った。君島零時はN大学法学部映画研究会に所属していた。一年生のSに恋をした。有頂天になりそうだった。だが心の奥底にグリフィーの焼け焦げた死体があった。自分がグリフィーを差し置いて幸せになってはならないと感じた。死んだグリフィーがいま幸せになるということ。この意味を浅草の1Kの薄汚れたマンションで君島零時は幾度となく考えた。GWにコロモに帰ることにした。グリフィーの墓参りをしよう。そんな些細な決意ではグリフィーの無念は晴れないだろう。何かの取っかかりになればいいのだと自分に言い聞かせた。アルバイトを始めるのはあとでいい。

 コロモへは深夜バスで六時間かけて帰った。君島零時に新幹線に乗る余裕はなかった。四年前の内戦で荒廃した郷里の仮設駅ではKが出迎えてくれた。君島零時の両親はあの日の空爆で遺体は残らなかった。グリフィーは軍を除隊後、トラック運転手に就いていた。深夜に積載量超過のトラックでコロモ高速道を南進中、中央分離帯を乗り越えてきた対向車と正面衝突。車体は炎上。即死だった。相手ドライバーは救急病院の医師で居眠り運転だったという。医師は一命を取り留めたが現在もコロモ記念病院で治療中とのことだ。グリフィーのお墓ってヤゴト霊園? そうだよ。すぐ行こうか。君島零時とKはミカワコロモ駅からコロモ市駅に出てミカワ線からコロモ新線に乗り換えツルマイ線のヤゴト駅に向かった。コロモ市駅のコンビニで買っておいたカロリーメイトを君島零時は車中で食べ終えるとトウキョウから携行してきた『ブエノスアイレス事件』を読んだ。ほとんど集中できなかった。Kは携帯電話をいじくったりペットボトルの緑茶をラッパ飲みしたりお得意の人間観察をしているようだった。ヤゴト駅まで車内は閑散としていた。あの空爆でコロモの人口は激減していた。あ、利亜夢と流尊じゃん。おお、ほんとだ。Kに促され君島零時は進行方向の中吊り広告を見た。痩せこけた二人の少年と可愛らしいビーグル犬のイラストが大火をバックにたたずんでいた。利亜夢と流尊と名のない一匹の犬はコロモの英雄として語り継がれていた。先の内戦でコロモを事実上の全滅から救った者たちだと語りぐさになっているのだ。二人は出生不明であり苗字もわかっていないのだそうだ。一説には彼らは未来から来た救世主だったとまことしやかに伝えられていた。二人と一匹がどのようにコロモを救ったかは学校の教科書にも掲載されている。君島零時とKそしてグリフィーが通った小学校の社会科の教科書には以下のような文面がある。


 彼らは地下に避難していたコロモ市民を救いました。なぜならトウキョウから地上隊がやってきて地下の殲滅作戦を決行する間際にコロモ空爆の発端となった盗難された機密文書のオリジナルを発見してアイチ県知事に渡したのですから。トウキョウは第二の攻撃作戦を取りやめました。その少年二人と一匹の犬がどのようにしてオリジナル文書を入手しどこから県庁に届けたのかはわかっていません。彼らの写真と少年の名前だけは後日知事宛に投函された消印不明の手紙により判明しました。写真にはオリジナル文書を持った二人の少年と一匹の犬がサインとともに写っていたのです。


 午前中のヤゴト霊園には人影はほとんどなかった。十五分ほど園内をさ迷ったが無事に栗風家の墓に着いた。二人は墓の掃除をするわけでも供花するわけでも線香を上げるわけでもなく御影石の墓前に手を合わせ、黙祷を捧げた。どちらともなく弔いの儀式を終えると二人は口数も少なく牛飯を食べKの通う大学をすこし散策してから帰路に着いた。二人の家はコロモ市内で近所だった。ミカワコロモ駅からは君島零時の家のほうが手前だった。じゃあな。ああ、バイバイキーン。あまりに唐突なKの別れの挨拶に面を食らった。去り際の余韻もなく君島零時は門を潜り昼下がりの庭を横切って玄関まで歩いた。玄関前の畑の横には古ぼけた倉庫がありその片隅には犬小屋があった。飼い犬のマリーが白と黒の斑の尻尾を盛大に振ってクンクン鳴きながらすり寄ってきた。君島零時はその場にしゃがみ込むとリードをパンパンに張って仰向けになり疥癬だらけの腹を曝した愛犬をさすってやった。マリーは雌のビーグル犬だ。利亜夢と流尊のお供のビーグル犬がブームになるはるか以前に生前の父が最寄りのデパートで買ってきた。あの日のことはよく覚えている。そのときのマリーの尻尾は先端からすこし下がったところの毛がなかった。大声に敏感に反応してなんだかおどおどしていた。保護犬ではなかったと思う。気の弱そうな顔をして上目遣いの潤んだ瞳でこちらの機嫌を伺ってように見えた。しかしいつのまにかお転婆でわがままな犬になっていた。まるで誰かさんのようだと父は思っていたかもしれない。空爆で全壊した跡地に戦災寄附金で建てた新居に君島零時は家鍵を差し込み入っていった。あの日、君島零時は犬の散歩をしており兄はマツヤデンキに買い物に出かけていた。市役所の緊急サイレンが鳴り響いた。兄弟はたまたま近くの同じ地下連絡通路に逃げ込んだ。ものすごい爆音と地響きがした。日曜日だった。在宅の父母は家もろとも焼尽した。ただいま。おかえり。居間から部屋着姿の兄が出迎えた。明日にはコロモを出るよ。そうか。寿司でもとるか。いいね。麦酒買ってくればよかった。裏のコンビニでいいじゃん。そうだね。兄弟は君島零時の上京前夜いらいの酒宴をささやかに開いた。父は頑なに成犬になったマリーを家で寝かすことを拒んだが兄弟は夜になるとマリーを土間で眠らせた。マリーは安心して寝息を立てていた。兄弟はなかなか眠れなかった。朝まで映画を観ることにした。カウフマン監督のヘンリー・ミラーの伝記映画にした。マリア・デ・メディロスの演技が印象的だった。観終わって自室に戻ると急に眠気が襲ってきた。グリフィーの手紙を捜そうとしたが風呂にも入らず歯も磨かずベッドに突っ伏して眠った。やがてむっくりと起き出すと洗面所に向かい身体を隅々まで清めた。手紙を見つける気力は失っていた。たぶん部屋にはないだろう。焼け残った倉庫か車庫か。手紙の内容は朧気ながら覚えている。最終行には手紙を破棄してくれとあったはずだ。君島零時はグリフィーのその願いを遂行しようと思った。手紙は捜さない。屑紙の堆積の下で永遠の眠りに就くことをグリフィーは望んでいたに違いない。君島零時は自室でもう一度睡眠に取りかかることにした。玄関をふと覗くとマリーは垂れた両耳を振るって目覚めようとしていた。昼に起きてマリーの散歩をしよう。深夜バスまでは適当に本でも読んでればいい。アルバイト情報を探すのもいいかな。君島零時は目を閉じる努力をした。マリーが盛大に鳴き始めて外に出せと訴えかけているようだった。

  

 3

 流尊が昨日観たというテレビドラマの捜査官みたいに懐中電灯を構えて暗闇のグランド通りをきょろきょろと数週間前に漁った住宅の隣を探す。といってもどれも寸分違わず同様の家並みゆえ収穫済みの家屋の玄関にはスプレーで×印をつけてある。何軒か印が連続しそろそろここらへんだなと記憶と照合して目星をつけているうちに予想通りビンゴとなった。流尊の長期記憶は万全のようだ。略奪は当初気まぐれに手当たり次第行っていたため通り一面モザイク状に印があとを追ってつけられているのだが流尊の提案であるときから近くの物件を手始めにしっかり計画的実行をしているのだ。まだまだ潤沢に未開の家は残されており数十年先はさすがに心配だけれど現在においてはなんの危機感も持たずにいる。この家からスプレーは数字にしようかと流尊が提案した。数字を憶えるのが面倒になるだけじゃないかしばらく間を置いて利亜夢が受けた。それもそうだなじゃあ通りの地図を作るかと流尊。さっきのように流尊は相手の反応を家の地下室の錠前をピッキングしながら待った。しかし利亜夢は後ろで解錠作業中の手元を懐中電灯で照らしているので間違いなく流尊の声は届いているはずなのに無言を貫いているばかりだ。なんだよしかとかよ! 沈黙を守る利亜夢に私もなにかあったのかと不安になり彼らを交互に見た。ついに堪忍袋の緒が切れたのか錠前がうまく外せずに苛立ったことも加味されたようで流尊は断末魔のような金切り声を天に吐き振り返ってだんまりの少年を見据えたかと思いきや肩を小突いてしゃがんだ姿勢だった相棒を後ろに倒してしまった。流尊は怒りっぽい性分だ。どんなジャンルにでも造詣が深い彼は利亜夢のような文化系の人物に紋切り型でつける物静かで寡黙といったレッテルとは正反対な活発で意気軒昂な人物だ。だが倒した相手に突発的な怒りで極端な行動に出てしまった自身の未熟さを即座に反省したらしくすまんすまんとまだ暴力を受けてさえも一言も声を上げないで驚いて状況がうまく飲み込めないでいる利亜夢に起き上がられるよう流尊は手を差し伸べた。悪りぃ悪りぃ興奮すると手がつけられないほど暴れ回ることもある流尊において意外に素直すぎるほど優しく豹変したためなにか裏に一物企んでいるのではないのかなどと疑ってかかってしまう。いいんだ。僕のほうこそ話を聞いてなくてごめんちょっと考えごとしていてと利亜夢はお決まりの外面だけの優等生発言をした。なにをそんなに考えていたんだ。二人の手はがっしりと繋がり合い勢いをつけて元の位置関係に戻った。私には判った。彼がうわの空になって思いふけっていたわけが。利亜夢は赤面しシドロモドロに数時間前視聴した生放送の顛末を流尊に語りはじめた。流尊は興味があるのかないのか静かに目を閉じ俯いて話を聞いている。流尊はいつもそうだ。相槌を打たない。黙考しているのか寝ているのか。その案件承った。やはり居眠りなんかしていたんじゃなく誠意を持って聞き入っていてくれた流尊の一言に利亜夢は喜色満面で晴れやかにありがとうありがとうと感謝の意を連ねた。私は疑心暗鬼に囚われている。浦口由侘あの娘の情報が百科事典に載っているはずもないしネットの検索でもなにも新しい情報は皆無だったらしい。SNSも凍結されているし。昨日の生中継でコメント機能を使ってみんなに訊いてみてもよかったがもうあとの祭りだ。流尊は一体どんな方法で浦口由侘を利亜夢の望みを叶えるべく捜し出すというのだろう。とはいえ有力な手がかりがあるのも事実だ。地熱発電所勤務。どこに発電所なんてものが存在するのか皆目見当つかないけどこの場所が掴めさえすればおのずと未来は切り拓かれるはずだ。私たち三人はグランド通りを一歩も出たことがなく周りにはどんな世界が広がっているのかなにも知らないのだ。案外近くに地熱発電所が稼動しており、我々が無知なだけなのかもしれない。まあなんだな今日はもうお開きにしよう。家に帰ってピッキングの道具を調整しないことにはどうしようもないみたいだ。流尊は手にした針金みたいな道具を利亜夢が持つライトに近づけほらだいぶまいっちゃってる研ぎなおすか最悪交換だなといった。利亜夢は興味なさげに目を泳がせるとじゃあさっきのことよろしくといって頭を下げた。我々は家路を急いだ。

 

 4

 二十四歳の誕生日を三日後に控えた一九九九年五月二十一日の夕暮のこと、君島零時は性懲りもなく大学図書館にいた。またぞろ季刊の批評誌に連載中の敬愛する作家の小説を読んでいた。だが次第にむずむずとお尻が落ち着かなくなってきた。物語は終盤に差しかかっている。君島零時は席を立つと雑誌を返却台に置いてそそくさと仮設図書館を出た。本館六階から地階に降りるのにエレベーターではなく狭苦しい緑色の階段を使った。学生ホールには目もくれず自動ドアを抜けると外気は乾いていた。田呉茂『ワンダリング・ソウル』の脱走兵グリフィーは逃走先で地熱発電所の浦口由侘に匿われる。コロモとナゴヤの中間地点に位置する地熱発電所だ。グリフィーが発電所に乗り付けたジープは後輪が両輪ともにパンクしていた。銃弾も逃走経路で出くわしたサンドピープルとの対決でマガジンを三分の一ほど消費していた。おまけにグリフィーはこの諍いで右肩を負傷した。包帯とアルコールで応急処置は自身でした。浦口由侘はモルヒネを所有しており手厚くグリフィーを迎え入れ介抱に精を出した。浦口由侘は二人の少年と一匹のビーグル犬とともに暮らしていた。ビーグル犬は見慣れぬ長身で筋骨逞しいグリフィーを威嚇のために盛んに吠え立てた。グリフィーは歯茎を剥き出しにして犬小屋さえ引きずろうとする勢いのビーグル犬にほとほと気圧されてしまった。君島零時はシブヤに向かうためにハンゾウモン線に飛び乗った。車内では二人組の女性が、『恋に落ちたシェイクスピア』、早く観に行かなくちゃ、あれなんだっけ有名な黒人がやっている『ドクター・ドリトル』? めっちゃつまんなかった! などと話していた。君島零時は眩暈を覚えた。座席にたどり着くまでにへなへなと倒れ込んだ。君島零時は失神した。


9月5日

 正午に退院した。ホウエイタクシーの後部座席のウィンドウを開けて娑婆の空気で頬が熱る。風で髪が靡く。マルヤマの書店「クレシゲ」に寄ってください。運転手に痰のからまった掠れた声でいう。発話がうまくいかない。喉が虚無で締めつけられる。「書苑クレシゲ」で季刊の文芸誌を買う。三ヶ月半ぶりのわが家に着く。犬を撫でる。とはいえ「外泊」で一時帰宅は何度かした。あのときも死にかけた。えらいこっちゃな。ラーメンを食べる。兄は自主上映会「コロモ世界遺産」をナゴヤの部室で開催。本は読まず日記を書いて薬を飲んで午後七時に寝た。


 翌日朝早く起きた。顔を洗い、歯を磨き、食パンとサラダで朝食を食べていると兄が二階から降りてきた。おはよう。おはよう、貧血、だいじょうぶか。ちゃんと食べて寝ろよ。あと昨日、映研の新入部員に聞いたんだけど利亜夢と流尊の正体が判明したってさ。え? ほんとに。今朝の新聞にも載っているはずだよ。朝刊はまだ入れていなかった。君島零時は朝食をかっこむと急いで新聞受けから朝刊を取ってきて一面を広げた。


コロモの救世主の利亜夢さん・流尊さん

アイチ県庁を訪問 正体を明かす


利亜夢=本庄亮(ほんじょう・とおる 19歳 大学生)

流尊=西山秀佳(にしやま・ひでよし 19歳 専門学生)


 君島零時はあっけに取られた。まさか実在する人物だったとは。彼らが語ることの真相は驚愕に値するものだった。二人はギフの廃村に生まれ落ちた。物心ついたころにはうらぶれた村には二人しかおらず父母の記憶はわずかであり自身の名前だけが伝わっていたという。一九九五年一月十七日、二人は梟に誘われて廃村を脱出する。着の身着のまま食うや食わず旅を続け、ナゴヤとコロモの中間地点のいまはなき地熱発電所に身を寄せる。当時の発電所所長U氏に匿われて生活を共にするなかで現在の名前を与えられる。二人は平穏無事に暮らす。だが四月下旬、ひとりの傷ついた兵士が発電所に逃げ込んできた。トウキョウ国防軍三等兵の栗風慎也(くりかぜ・しんや)である。二人によると栗風はトウキョウ軍とコロモ軍の二重スパイだった。彼は一九九五年内戦の発端となった機密文書のオリジナルを所持していた。二人は彼からオリジナル文書を託された。五月二十四日付けでアイチ県知事宛に当該文書を投函した。コロモはトウキョウから赦免、世にいう「コロモの奇跡」となった。本件は先月二日の二人の県庁訪問から固く秘されてきた。栗風は今年四月二十六日に二十四歳で交通事故死しており証言を得ることはできない。だが現在の二人と当時送付された二人の少年の顔写真ならびに写真に付着した指紋を照合したナゴヤ県警の同一見解を受け、ナゴヤ市と政府は今回の発表を決断。後日、各報道機関に伝達された。都内・ナゴヤ市・コロモ市では号外が配布された。


 君島零時はシブヤのスクランブル交差点で信号待ちをしていた。前方の大型ビジョンを見上げるとDragon Ashのニューアルバムのスポットがエンドレスで流れている。君島零時はひとりで映画を観にきた。Bunkamuraの『ファイアーライト』。主演はソフィー・マルソーだ。彼女は誘えなかった。君島零時は青になった横断歩道をとぼとぼ歩いた。墓参りと病気で今年は早くも二度帰省した。大晦日はもう帰らなくてもいいかもしれない。新年の初詣に彼女を誘ってみようか。君島零時はほくそ笑んだ。無理だ! 所詮、俺は俺だ! 「Greatful Days feat.ACO,ZEEBRA」をヘタクソに口ずさむ。友人を弔っても病気を患っても何も変わらない。俺と彼女は永遠に平行線だ。利亜夢と流尊のニュースは地元では大々的に報道していたがトウキョウでは静かなものだった。Kにもらった快気祝いの腕時計で上映時間を確認する。君島零時はスペイン坂を登り、パルコ前で昼下がりの雑踏に消えた。

 私は彼を追跡することを一旦中断しよう。カンセコの指令だ。仕方がない。君島零時は田呉茂『ワンダリング・ソウル』をまだ読み終えていない。


初出:『山羊の大学』第二号(メルキド出版 2021)

  

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