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【『ビジュアル美少女Vol.1』2023所収】美少女ゲーム批評についての異端的論考:Mad for The Killing Joke 3【36000/36000+参考文献等】

writer&illustrator: 江永泉


承前

0''.エピグラフ・急

弾丸込めた小銃を持って 固く閉ざされたドアを蹴破った
吸い付いた銃口が跳ねて 昨日の僕を貫いた
おやすみ その絶望を受け取って 明日への僕は歩き始めた
また今夜 待ち合わせよう

Hello Sleepwalkers「午夜の待ち合わせ」2014、テレビアニメ『ノラガミ』オープニングテーマ

7.エロゲ批評再興の提案(メタコメンタリーの試み2)

 こんなふうに始めてみる。
 「モン娘 モン娘 モン娘 はい!はい! モン娘 モン娘 モン娘 はい!はい! モン娘 モン娘 モン娘 はい!はい! モン娘 モン娘 モン娘 Let’s Go!」(『Catch me!モンスター娘☆』2022)。『モンスター娘TD』の主題歌はそんな風に始まる。文字に起こした際の度外れたペラさ。宴席での掛け声のようだ。聴きながら私が連想したのは次の歌だ。新海誠『天気の子』でも流れていた歌だ。
 「バーニラ バニラ バーニラ求人♪ バーニラ バニラ高収入♪ バーニラ バニラ バーニラ求人♪ バーニラ バニラでアルバイト♪」(『高収入求人バニラ』未詳)。これは「バニラのテーマソング アレンジコンテスト2017」の前後から急速に認知度を拡大していった一節である。
 特徴的なメロディとともに、『天気の子』の東京の街を走る宣伝車(アドトラック)の鮮烈なビジュアルが脳裏に浮かぶ。
 実は、このテーマソングも酒宴と関連がある。おそらく次のような曲を『高収入求人バニラ』の先行作として挙げうるはずだ。
 「飲ーんで飲んで飲んで 飲ーんで飲んで飲んで 飲ーんで飲んで飲んで パーリラ パリラ パーリラ アイアイ♪ パーリラ パリラ エッ? 終わり?」(林田健司『愛の東京コール』2006)。
 この楽曲は2006年開催の第3回ホストグランプリの会場でも再生されたようだが、その第3回優勝者のホストは、今では歌舞伎町ほかでホストクラブを経営する株式会社AIR-GROUP(エアー・グループ、創業2002年)の立役者としても知られている著名な人物、一条蘭だった。
 ところで東浩紀「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」の発表が2004年、TVアニメ版『AIR』の放映は2005年からであるが、恋愛アドベンチャーゲーム『AIR』(Key:2000年)は実のところ全年齢版の発売前(18禁版のみ流通)の時点で売上1位かつユーザー人気投票総合1位作品として知られていたという(『BugBug』2001年3月号)。
 そんなことを思いあわせると、ひょっとするとエアー・グループ創業者の五十嵐龍一がこのゲームの存在を認知していたかもしれない、といった夢想すらも頭を過ぎる。
 つまり、こうなる。
 セカイ系の青空の輝きは、そもそも夜の繁華街の煌きとともにあったのかもしれない。
 とすればゼロ年代的な「美少女ゲーム批評」の地平それ自体が、オタク・インセルの夜郎自大によってゆがめられ、ジョーカー化するしかないような(非モテ異性愛)男性論に至るように、誘導されてきたのではないか。そして「レイプ・ファンタジー」批判は、そうしたゆがんだ(非モテ異性愛)男性論と化した「美少女ゲーム批評」への解毒剤となるどころか、何色かのピルを飲んで二次元に旅立つ(都合によりバ美肉する?)男たちのイキがるマッチョイズムの上に、また何色かのピルを飲んで脱オタする男たちのイキがるマッチョイズムを上乗せしたにとどまったのではないか。
 だとすれば、突破口は「美少女ゲーム批評」のリスタートにある。
 しかも男性学的でメンズ・リブ的なカルチャー批評としての、それに。
 それは「美少女ゲーム批評」の定番となった枠組みを破壊しながら、カルチャーのなかを彷徨し、コンテンツとジャンルを往還し、自身の体験と理論的思弁を往還し、自分たちとコンテンツのそれぞれを規定しているところの、ジェンダーやセクシュアリティの体制を意識して、守るべきところや譲れないところと、どうでもいいところや変えるべきところとを見極め、選り分けていく、そんな作業の繰り返しによって達成されるだろう。
 こう語るならば『ErogameScape-エロゲー批評空間-』というサイトに触れなければならない。それは2001年頃に『CinemaScape-映画批評空間』というサイトのパロディとして開始されたという。このサイトでは家電の性能評価のように、ポルノ作品としてのエロゲの評価が記載されている。もちろん、そうした性能評価以外の所感も述べられてはいるが、点数づけやチェックシート的な色彩の濃い評価フォーマットは、いわゆるゼロ年代批評的な(文芸)批評めいたスタイルとは距離感のあるものだ。つまるところ「エロゲ批評」という呼称は、上半身(思弁)に傾倒した「美少女ゲーム批評」の、引きちぎられた下半身(セクシュアリティ)のごとき存在なのである。
 あらためて、本稿で述べてきたことを適宜、補足しつつ、まとめてみる。
 私は、「美少女ゲーム批評」の担い手が自身の体験する「射精など」に向き合い、真に「人間の根本的な存在の条件や欲望のどうしようもなさや多様性や文化装置と社会の問題を思考する永遠のプロセスを加速させていく中での身体的・知的な快楽」を考察し記述するように訴えてきた。これは「寝室シーン」のない全年齢版であるかのように――あるいはKawaiiキャラクターのHentai的二次創作など存在しないかのように――「美少女ゲーム」を論ずることへの異議申し立てであった。そのように論ずることも不可能ではないし有意義でもありうるが、ことジェンダー体制やセクシュアリティ体制を考える男性学的観点からすれば、議論を停滞させる雰囲気が維持再生産されるのはそうした「射精など」を語る言葉の抑制ないし貧困によるものだと思われた。直接には「美少女ゲーム」を扱っていないマッキノンのようなフェミニストやベルサーニのようなクィア理論家の著作のほうが、ポルノグラフィ批評としては学ぶべきところが多いかもしれないと私は指摘した。
 さらに、私は「美少女ゲーム批評」をめぐるゼロ年代の状況を乱暴に整理してみた。これは以前「「12歳の少年」の末裔たち(前編):ゼロ年代批評の男性性論的側面の意義と限界」(2021)で検討した事柄の再検討でもあった。同記事から引用してみる。
 「ゼロ年代批評は、1990年代以来広範に論じられていた脱男らしさ論の流れに応答していた面があった。今日の状況下では自他を傷つける負担でしかないと見込まれる「鎧」としての男らしさ規範を解消するという試みと並行して別の「らしさ」を考え形にする模索が種々あり、そのひとつが「オタク」であった。論壇のジェンダー・バランスが私語りや趣味語りと「男性性」の癒着を招いた点もあるが、単に(異性愛)男性が多いから(異性愛)男性のものと考えられていたわけでは、必ずしもなかった(そうした夜郎自大も間々見られたにせよ)。大きく問題視されたのは理論的言説の是非というより、それをつむぎ発する場や、ファンダムにおける嫌悪と差別であったと思う。自分を語っていいということと自分を押し付けて良いということが混同されていたのではないか(それ自体が長くセルフケア意識に疎かったメンタリティゆえの限界だったとすれば、そうなるのももっともではあったのだが)」(江永泉:2021)。
 「いわゆるゼロ年代批評は上記に見てきたような文脈から捉えれば確かに男性学的な批評と言える側面があった。より具体的には(異性愛で男性の)オタクはどうあるべきかと語っている面があった。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』2007に所収された「萌えの手前、不能性に止まること――『AIR』について」がその範例であろう。そこでは、いわゆる「美少女ゲーム」が、異性愛者の男性たちのアイデンティティを形づくりうるコンテンツを供給するジャンルとして捉えられていた。『AIR』などの美少女ゲーム作品はプレイヤーに恋愛を体験させる(恋愛物語に没入させる)。「非モテ」の「男性オタク」でも恋愛や結婚を夢見れる。いわば〈父になる〉ことができる。かくして美少女ゲームとはプレイヤーを〈父にさせる〉ジャンルだ、となる」(江永泉:2021)。
 「「父性の復権」だろうか。一面ではそうだ。しかし、ただの引き写しではない。「非モテ」の(男性)オタクは(憧憬と侮蔑半々で)「マッチョ」になれない「ダメ」男と自嘲し、己の「女々しさ」をある種の「少女漫画」的感性と混淆させつつ(程度の強弱はあれ、暴力的な要素を含む場合も少なくない)性的妄想をこじらせていく。ところで文学青年や音楽青年はマッチョモードと少女モードを使い分けて良いとこどりを目論む碌でもない輩になりがちだが、この意味で男性オタクとは純文学を読まない文学青年である(意識せぬまま二次元と三次元の乖離としてそうしている)。マッチョか、あるいは文学青年か。このふたつの道しかないのか。少なくとも、いずれの道も選ばない所作を東は提案する。「萌えの手前、不能性に止まること」である」(江永泉:2021)。
 「確認しておけば、いわゆる「非モテ」は異性愛と男性それぞれの従来的で覇権的なモードとは別様のあり方だという共通了解の下に東の議論もあった。これは日本における50歳時点での未婚率の劇的上昇も背景にしている(男性の場合、雑に言えば1980年代から2010年代までのあいだで50人に1人から5人に1人程度にまで割合が増えている)。「非モテ」の論じ方という意味で様々な論者を整理できなくもない。例えば、小谷野敦『もてない男』1999は恋愛至上主義の批判を体現する主体として「非モテ」を打ち出したと述べうる。その方向で恋愛結婚市場の批判を体現するのがキモオタだと論じたのが本田透『電波男』2005だった。なお「批判を体現」というのは、理屈だって語られているわけではないが、振る舞いで示している(とその振る舞いを感知した誰かが認識する)程度の意味合いで私は使っている。モテないのではなくモテようとしないのだという意味合いの「草食系男子」に新たな男性像を託したのが森岡正博だ。『感じない男』2005の著者である森岡もゼロ年代男性性論の一角だった(だが同書の一部は内面化されたマスターベーション有害論の記述にも私の眼には映っていた)。また赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」2007にも未婚率上昇(失われた30年)の渦中での激変の痕跡がある。こうしたロスジェネ論壇から出発した批評家のひとりが、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』2021の著者、杉田俊介である」(江永泉:2021)。
 本稿では、このnote記事の執筆時には十分に触れられなかった、宇野常寛の「レイプ・ファンタジー」と「母性のディストピア」への批判の意義とその限界、そして本田透の『電波男』のインパクトと、それがもたらしたかに思える「美少女ゲーム批評」の同時代的な「純愛」ブームからの孤絶、それに関連するように思えるジョーカー的でインセル・オタク的な語りに囚われる罠の所在とその機能、などを論じようとした。先行文献に十分目配せできたわけではなく、簡潔な図式に収めえたようにも感じられない。ナショナル・アレゴリーとジェンダー表象や子供/成人表象については、もっと掘り下げて論じうるはずだ。それのみならず、あちこちでメタフォリカルな説明にとどまった箇所も残った。今後の課題である。
 簡潔に言えば、私が提案したいのは、「美少女ゲーム批評」の「エロゲ批評」化であり、「エロゲ批評」の「美少女ゲーム批評」化である。いうなれば、個人的な思弁と私的な感傷に偏った上半身と、ポルノとしての実用性やエンタメ製品としての評価に偏った下半身とを衝突させることである。そのような衝突とともに、語り口を決定づけていたかに映る地平は砕け、フレームワークはひしゃげて、様々な種類のコンテンツやジャンルのトピックが、膨大な数、「美少女ゲーム批評」並びに「エロゲ批評」のフィールドへと雪崩れ込んでくることだろう。そのときこそ〈カルデア人〉たちは満点の星空へと出会いなおし、星座を引きなおしながら人類悪に対峙し、人類悪の誕生に至るこの宇宙の過程をも把握して、それをただ退治するのではない結末に向けて、闘争することが可能となるだろう。真に人理が修復される。大団円のなかでだ。そんな夢想をするうち、ふと次の歌を思い出した。脳内で再生される。

偶然手にした刃で
正しさの是非を決めよう
色をわける 地図を区切る
理由を(つけて) 意味を(つけて)
真に受けた噂話の
ガラクタを見つめてみよう
ゆれる意識 満ちる歓喜
それも(全て) 取り込んで

柚子乃「モラトリアム・クラスタ」2013、WHITESOFT『ギャングスタ・リパブリカ』主題歌

 この曲が、メタコメンタリーの試みの、その原理を歌い上げている。

 私たちは「根源」なる星座のため、〈神聖科学〉を必要としている。

 あの〈カルデア人の術〉を。

 つまり、破壊の批評と、救済の批評を。

8Let the memory live again.(「美少女ゲーム」・「批評」と私)


 だが、結局、己が名において語るべきことを、まだ私は十分に述べられてはいない。
 私の話をする。
 私がどんな風に「美少女ゲーム」をプレイしていたのかを語る。
 そして、私がどんな風に「美少女ゲーム批評」と出会ったのかを。
 予め述べる。
 これはメタコメンタリーを通して自分が打ち出した指針に沿う実践例ではない。
 いま私が語りうることの限界がここには現れている、と思う。
 いつかこの語りは更新されなければならない。
 話を始める。
 だけど始まりがどんな風だったかもう覚えてはいない。
 ともだちが教えてくれたのだと思う。始めはPurple software『春色逢瀬』。
 次に確か、マーベラス『はぴねす!』。それにオーガスト『FORTUNE ARTERIAL』。
 そしてKey『リトルバスターズ エクスタシー』とニトロプラス『装甲悪鬼村正』。
 そんな順番で体験していたのだと思う。
 変声期を迎えていた私はだんだん高い声が出しづらくなっていってもう昔みたいに好きな歌が歌えなくなるのが怖くて悲しかった。
 『はぴねす!』の渡良瀬準というキャラクターに出会ったことが救いだった、とまでは思わないけれど、そういう在りかたを知るのはわるい体験ではなかった。あとは、「性別:秀吉」とされていた井上堅二『バカとテストと召喚獣』(2007-2015)のキャラクター、木下秀吉とか。
 たぶん「男の娘」というのが何を指すのかが、まだぼんやりとしていた頃のことだ。
 『はぴねす!』も『FORTUNE ARTERIAL』も、すごい力を持っているけれど、家や血筋に縛られて、頑なになってしまったキャラクターの、心を溶かすことがトゥルーエンドに結びついていた、と思う。
 その頃から私は家族っていうものにいろんな気持ちを抱えていたから、そんな物語に心動かされたのだった。
 それで、その前だったか、後だったか、わからないけれど、私はインターネットで批評というものに出会っていた。
 ひとつはもう消えてしまった漫画批評のサイト。道満晴明論に心奪われて、あとはドイツロマン主義の批評のコアなイメージを教わった気がする。
 もうひとつは、「モナドの方へ」。ALI PROJECTのディスクレビューで知って、英米系の文学理論とか幻想文学とかの様々な著作をそこで知った気がする。
 そしてもうひとつ。tukinohaさんというひとのブログ。今はブログの名前が変わっていた。昔の名前は思い出せない。そこでは日本近代思想史とか、新海誠の手がけたMVの評文とかがあって、それに田中ロミオ『最果てのイマ』論があった。ザウス『最果てのイマ』を中心にした作家論のようなものだった。補遺を含めて全6回の連載記事で、私はそこに並んでいた名前の思想家の本をきっと大学に通う人々は当然のように読み通しているものなのだろうと勝手に思っていた。バトラー、フーコー、デリダ、レヴィナス、ナンシー、酒井直樹、柄谷行人……。
 だから、ポストコロニアル・フェミニズムに触れるのと、ゼロ年代批評に触れるのが私の中では両立していて、それは当然のことだった。
 『リトバス』で三枝葉留佳の物語を体験したとき何か辛かった気持ちがある。なんというか三枝葉留佳の眼の光の失い方を私は身を以て知っている気がしていた。
 もっと身に沁みたのは二木佳奈多の物語だった。というか葉留佳と佳奈多の物語だった。
 体面を重視する名家の圧力で、ふたりは虐待を受けながら競争を強いられる。想いあっているはずなのに心と体が離れていく。二人の間で、愛と憎しみがぐちゃぐちゃになる。名家は自分たちの都合でふたりの人生を操作しようとしている。
 宗主国が植民地で行う分割統治のやり口だ、と思った。
 葉留佳と佳奈多のバラバラになりそうな体と心は、頑なさと脆さをいびつにあわせ持った二人の姿は、まるで状況が違うはずだけれど、どこか私みたいだ、ってそのときの私は思ったのだった。どちらが私なのかはわからなかったけど。
 でも葉留佳よりは佳奈多に似ていたのかもしれない。
 主人公の直枝理樹ががんばって、ふたりが名家の呪縛から解き放たれて、愛する人々と生活していくことになるエンドは、だから、本当に感動的だった。
 『装甲悪鬼村正』をこんな風に言祝ぐことはできない。
 あまりに壮絶だったから。
 それは露骨なぐらい第二次世界大戦後の連合軍による日本の占領統治を意識した物語だった。それだけじゃなかった。アイヌの人々への差別や、公害問題など、様々なリアルな事柄を想起させる箇所がゲームには盛り込まれていた。
 主人公の湊景明は物語の始まりの時点でもうがんじがらめになっている。
 湊家の実子であり景明の義理の妹である光は、鉱毒に侵されて余命いくばくもないまま、大量破壊兵器の力で命を長らえながら夢現に人々を殺戮して回っている。
 そもそも光は景明の実子である。湊斗家当主の女性、統の夫(景明の義父)が戦傷で子をつくれない身体になったため、義父に代わって、家の都合から、しかも媚薬などで正気を失った状態の景明が、統とのあいだに成した子が光であった。
 景明を愛していた光は大量破壊兵器の力を利用して統を景明に殺させている。
 光に対抗するため、景明も大量破壊兵器――パワードアーマーのようなもの――を使用するのだが、その兵器には平和を願う心から生まれたおぞましい呪いがかけられており、憎むべき悪人をひとり殺すと、愛すべき善人をひとり殺さねばならない。善悪と言っているが、実際には関わりの深い相手のうち倒すべきものを殺せば守るべきものも殺さざるをえない、その程度の制約になっている。
 光は自身の兵器の力を分け与えながら人々を狂わせており、その力に溺れた者たちを始末しながら、しかし己に関わった善人をも殺しながら、景明は光の殺戮を止めるための追跡劇を続ける。
 このように主人公だけでもどうしようもない状況に置かれている上に、主人公を取り巻くひとびともどうしようもない状況に置かれている。決して善人ばかりではなく、悪辣な人間もいるのだが、どうしようもない状況に飲み込まれても、なんとか自分の譲れないものだけは譲るまいとする、そんな執念を以て必死に生きる人々が大勢登場し、殺し合う。
 私はやはり、ポストコロニアル・フェミニズムの問題をそこに見出し、また、フランス現代思想の赦しの問題をそこに見出した。そんな風に思ってしまった。
 稚拙な理解に基づいていたかもしれない。
 文献が厳密に読めていたとは思えない。
 ゲームの設定だってどこまで把握していたかわからない。
 けれども、私は私の人生を私なりに考えて解釈するために読んできたいろんな思想と、私の心をめちゃくちゃに揺るがせる物語とが、同じことを描いたり突き詰めようとしたりしているって本当に理解ってしまったんだ。そういう風にしか言えない瞬間があった。
 社会の趨勢や、薬品や兵器の力で、己の生き方も欲望も意志も歪められた景明。その生きざまをプレイしながら望んでもいない場面を何度も見せられるうち、自分の感覚も麻痺してくる。私はこうなると知ってゲームをプレイしている......こうなると望んで物語を体験している?
 私は私の欲望や意志がなんなのかわからなくなってくる。セクシュアリティも。がんじがらめだ。ゲームの中の景明たちみたいだ。
 みんなどうしようもない力関係に飲み込まれながら、どこまで自分の思いや願いかわからなくなるような生を背負いながら、必死で生きていて、決められた展開に従ってゲームを進める私は私自身のままならなさと物語の中のままならなさの区別が怪しくなってゆく。
 思想だけで考えてもたどり着けないところまで物語は私を連れて行ったし、物語が何を私にもたらしたか考えるときに思想に助けられた。人生は物語にも思想にも合流した。
 最後、景明は、本当に殺したい、憎んでも憎み切れない人間の体を刺し貫く。そういうやり方で、どうしても刀を向けられなかった、本当に愛していた娘の、光の身体も貫き、引導を渡す。――つまり本当に消し去りたい自分に刃を刺して、光の心臓を貫く。それが魔剣・装甲悪鬼だ。――戦火の中、どうしようもないほどに様々なものを背負わされた、ポストコロニアルな主体が、自己破砕によって、呪いの連鎖を止め、和を成し遂げる。
 それは私の身も心も染め上げるほど、強度なビジョンだった。
 けれどこの作品はこんな風にも言われている。
 もりやん「ギャグを超えられなかった『装甲悪鬼村正』」(『月刊ERO-GAMERS』第7回)から引用する(2009年11月掲載?)。
 「本作の最も優れた点はなにか。それは笑いであるとぼくは考える。しかも、明るさ・楽しさ・ハイテンションによるものではない、笑いの根本的な技術に基づくものである。[……]笑いの本質は、“ズレ”にある。自分の想定から外れた出来事を前にして、人は笑う。コンビ漫才においては、ボケ役がズレたことを言い、ツッコミ役がそれを指摘するのが基本的な手筋である」(もりやん:2009)。
 「本作の主人公・湊斗景明は、正統的なヒーローではない。のみならず、そのストーリーもまた、典型的なエンターテインメントの技法に沿ったものではない。ヒーローの活躍、巨悪との戦い、その中で結ばれるヒロインとの恋愛といった、広く好まれる展開は、努めて避けられている」(もりやん:2009)。
 「ヒーローは常に挫折し、倒すべき悪は悪といえず、自らの行いを誇ること叶わない。ヒロインとの恋愛は破綻すべき関係によってしか得られず、最終的に主要人物が誰も幸せにならない、そんな物語である」(もりやん:2009)。
 「これが、ブラックな笑いをもたらす上で非常に有効に働いていることは、注目に値する。重苦しい運命に強制された戦いの最中に行われる景明と村正の軽妙な会話は、クスリという笑いを起こさせるとともに、一層戦いの悲惨さを引き立てている」(もりやん:2009)。
 「しかし、それがただ意外であるうちは、決してプレイヤーを泣かせるものにはならないのも、また事実である。読み手の想像を裏切るのは良い物語だが、期待を裏切ることは必ずしもプラスに働かない」(もりやん:2009)。
 「望まず無辜の人を手に掛ける景明の後悔と恐怖も、同時に繰り広げられる顔芸のせいで苦笑しかもたらさない。長坂右京金神様フォームはギャグでなければなんなのかわからない。魔 剣 装 甲 悪 鬼(シャキーン)とか武帝(笑)とかはもうツッコミ疲れてついていけない」(もりやん:2009)。
 「現状の『装甲悪鬼村正』は、壮大なギャグとしか評しようのない作品である」(もりやん:2009)。
 私が魂を揺さぶられた作品は、この評者にとって「壮大なギャグ」でしかなかった。
 感動した私の人生もギャグなのだろうか。
 ギャグかもしれない。
 だけど、だからこそ、私はこんな書物の一節を最後に引くことができる。
 「人が防いだり、避けたり、克服したり、修復したりできないものは、数かぎりなくある。間抜けな顔に生まれつく。子ども時代に虐待される。エディプス・コンプレックスの三角形に陥る。自分にはクィアの遺伝子があることに気づく。絶望的なほどどうにもならない関係にどっぷり浸かる。どうにもできないことはあまりに多い。その当時もどうにもできなかったし、今もどうにもできない。笑うしかできないことはあまりに多い。どんなときでも笑うことはできる。壊れた染色体のせいで、漫画『ポパイ』のオリーブや、アメリカの元下院議員、ニュート・ギングリッチのような顔で生まれてしまったことを、極小ペニスを、死そのものを、人は笑うことができる」。
 昔どこかで読んで、抜き書きしていた、アルフォンソ・リンギス『信頼』(岩本正恵訳、2006)の一節だ。章題は「ラブ・ジャンキーズ」(本が手元にないし、ページ数が思い出せない。PCにこれだけが保存されていた)。
 問題はたくさんある文面だ。
 例えば「クィアの遺伝子」って何を指すのだろうか。
 だけど、私が人生みたいに感じていたゲームが誰かにとってのギャグだったというのが、私に教えてくれるのは、私の人生もギャグみたいかもしれない、ということで、そしてこんなことだ。
「どうにもできないことはあまりに多い。その当時もどうにもできなかったし、今もどうにもできない。笑うしかできないことはあまりに多い。どんなときでも笑うことはできる。[……]人は笑うことができる」。
 私は多分、今後どんな風になっても、笑えずに死んでいっても、その死に様は笑えるしギャグになるはずだ、って信じられるようになった。

 どんな出来事でも笑えるようになる。
 
 それをなしとげたときに、私は出来事を批評したのだ、と言うだろう。
 
 いまは夜。残酷なくらい満天の星空だ。
 
 きっと私は笑えている。

参考文献等

*引用した文献:日本

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 海猫沢めろん(2004)『左巻キ式ラストリゾート』パンプキンノベルズ
 熊田一雄(2005)『男らしさという病? ──ポップ・カルチャーの新・男性学』風媒社
 小谷真理(2003)「おたクィーンは、おたクィアの夢を見たワ。」東浩紀(編)『網状言論F改 ──ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』青土社
 さやわか(2017)「排除のゲーム史」大澤聡編著『1990年代論』河出書房新社
 白江幸司(2022)「ノベルゲームのファンタズマゴリア——『魔女こいにっき』における行為と竜」初雪緑茶責任編集『新島夕トリビュート』Ghost Letters
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 藤田直哉(2011)「アダルトメディアのカタログ的プラトー──アダルトヴィデオを如何にして語るか」松平耕一編『新文学04』文芸空間
 畑中佳樹(1985)「挑発する廃墟──コンピュータ・ゲームを読む」『ユリイカ』1985年5月、青土社
 本田透(2005)『電波男』三才ブックス
 マルドロールちゃん(2022)「模像の消尽のためのエスキス」『PROJEKT METAPHYSICA』 Vol.1、プロジェクト・メタフィジカ
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 村上裕一(2011)「INTRODUCTION」坂上秋成・村上裕一・しねあい編(2011)『ビジュアルノベルの星霜圏』BLACK PAST
 楊駿驍(2019)「あなたは今、わたしを操っている。──「選択分岐型」フィクションの新たな展開」佐久間義貴ほか編『ヱクリヲ』vol.10、ヱクリヲ編集部
 横山宏介(2019)「ユビキタスとデミウルゴス」佐久間義貴ほか編『ヱクリヲ』vol.10、ヱクリヲ編集部

*引用した文献:翻訳

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 キャサリン・マッキノン(1995)『ポルノグラフィ──「平等権」と「表現の自由」の間で』柿木和代訳、明石書店

*引用した文献:WEB

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 大沼忠弘+村上陽一郎 (1998)「占星術」『コトバンク』「世界大百科事典内の《エ ヌマ・アヌ・エンリル》の言及」参照 ),
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 貞包英之 (2022)「秋葉原の衰退から見えた、「オタクが経済を回して
い る 」 論 の 実 際 」『 マ ネ ー 現 代 』,
 山野弘樹 @Ricoeur1913 のツイート(午前 9:05 · 2022 年 8 月 9 日付),
 田村俊明 (2016)「 ク エ ス ト: 狂 乱 の 呼 び 声(degree of frenzy)」
『Rhetorica(2012-2022)』
 江永泉 (2020)「レオ・ベルサーニ『ホモズ』(1995) 読書ノート:「プロローグ:”We”」[1 ‐ 10 頁 ]」note『江永泉』アカウント
 江永泉(2021)「「12 歳の少年」の末裔たち ( 前編 ):ゼロ年代批評の男性性論的側面の意義と限界」note『江永泉』アカウント
 もりやん(2009)「ギャグを超えられなかった『装甲悪鬼村正』」『月刊 ERO-GAMERS』第 7 回
 Christine Emba(2023)「Men are lost. Here’s a map out of the wilderness.[行方不明な男たち。これが荒れ野をわたる地図]」『Washington Post』(最終アクセス 2023 年 10 月 9 日)引用は私訳

*言及した文献:日本

 東浩紀(2004)「萌えの手前、不能性に止まること──『AIR』について」東浩紀(2007)『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書
 石川博品(2011)『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』ファミ通文庫
 井上堅二(2007-2015)『バカとテストと召喚獣』全18巻、ファミ通文庫
 江永泉(2022)「セカイ系、やる夫スレ、あの花──2010 年代の個人的な回想」『青春ヘラ』vol.5、2022年11月
 江永泉他(2020)「【EXPLICIT】セカイを侵す愛は、人類への福音か?──『沙耶の唄』読書会【闇の自己啓発会】」note『江永泉』アカウント
 江永泉他(2021)『闇の自己啓発』早川書房
 上遠野浩平(1998)『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』電撃文庫
 小林よしのり他(2012)『AKB48 白熱論争』幻冬舎新書
 小谷野敦(1999)『もてない男──恋愛論を超えて』ちくま新書
 ササキバラ・ゴウ(2004)『<美少女>の現代史──「萌え」とキャラクター』講談社現代新書
 貞包英之(2021)『サブカルチャーを消費する──20 世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』玉川大学出版部
 杉田俊介(2021)『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち 』集英社新書
 永山薫(2014)『増補エロマンガ・スタディーズ──「快楽装置」としての漫画入門』ちくま文庫
 「美少女の美術史」展実行委員会(編)(2014)『美少女の美術史──浮世絵からポップカルチャー・現代美術にみる"少女"のかたち』青幻舎
 向江駿佑・森敬洋・Jhee Moon(2021)「WEB コンテンツから〈ゼロ年代批評〉を逆照射する──クリエイションとジェンダーを中心に」『アート・リサーチ』21 巻、2021年3月
 森岡正博(2005)『感じない男』ちくま新書
 Yoshi(2002)『Deep Love―アユの物語 完全版』スターツ出版
 BugBug編集部『BugBug』vol.79、2001年3月[フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「AIR (ゲーム)」の項、出典18関連記述を参照した]

*言及した文献:翻訳

 レオ・ベルサーニ(1996)「直腸は墓場か?」『批評空間』酒井隆史訳、1996 年 1 月
 アルフォンソ・リンギス(2006)『信頼』岩本正恵訳、青土社 ※文献が手元になく、自分の抜き書きを参照した。
 Leo Bersani(1995)『Homos』Harvard University Press[日訳としてレオ・ベルサーニ(1996)『ホモセクシュアルとは』船倉正憲訳、法政大学出版局がある。しかし誤訳などの関係から、適宜、英語原文を参照して読む必要がある。]

*言及したコンテンツ:音楽

 ジョー・力一「死神 (Cover)」2021
 鈴木このみ「CHOIR JAIL」2012
 林田健司「愛の東京コール」2006
 Hello Sleepwalkers「午夜の待ち合わせ」2014
 松下「Catch me!モンスター娘☆」2022
 未詳「高収入求人バニラ」2016?
 やなぎなぎ「Zoetrope」2013
 米津玄師「LOSER」2017
 米津玄師「死神」2021
 米津玄師「POP SONG」2022
 米津玄師「KICK BACK」2022
 柚子乃「モラトリアム・クラスタ」2013

*言及したコンテンツ:漫画

 大場つぐみ(原作)小畑健(作画)『DEATH NOTE』(『週刊少年ジャンプ』集英社、2003-2006連載)
 花沢健吾『ルサンチマン』(『ビッグコミックスピリッツ』小学館、2004-2005連載)

*言及したコンテンツ:映像

 武藤将吾・徳永友一(脚本)『電車男』2005
 金子茂樹(脚本)『プロポーズ大作戦』2006
 ウォシャオスキー姉妹(監督)『マトリックス』1999
 クリストファー・ノーラン(監督)『ダーク・ナイト』 2008
 トッド・フィリップス(監督)『ジョーカー』2019

*言及したコンテンツ:アニメ

 安藤正臣(監督)『がっこうぐらし』2015
 石原立也(監督)『涼宮ハルヒの憂鬱』2006/2009
 押井守(監督)『うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー』1984
 岸誠二(監督)『Angel Beats!』2010
 岸誠二(総監督)『結城友奈は勇者である』2014
 佐藤卓哉/今泉賢一(監督)『生徒会の一存』2009/2013
 新海誠(監督)『天気の子』(2019)
 新房昭之(監督)『魔法少女まどか☆マギカ』2011
 たつき(監督)『けものフレンズ』2017
 山川吉樹(監督)『リトルバスターズ!』2012-2013
 山田尚子(監督)『けいおん!』2009-2010

*言及したコンテンツ:ゲーム

 アリスソフト「ランス」シリーズ1989-2018(R18)
 アリスソフト『ドーナ・ドーナ いっしょにわるいことをしよう』2020(R18)
 イニミニマニモ?「BLACKSOULS」シリーズ2017-(R18)
 オーガスト『FORTUNE ARTERIAL』2008(R18)
 空想の工房『▼スライム娘は人間と友達になりたいようだ』2023
 クリエイティブチームくまさん『モンスター娘 TD』2022(R18)
 合同会社ズィーマ『リトルボムガール』2022
 合同会社EXNOA『クレイヴ・サーガ 神絆の導師』2023(R18)
 ザウス『最果てのイマ』2005(R18)
 タムソフト『お姉チャンバラ ORGIN』2019
 てとり『せんていトランス』2023
 ニトロプラス『装甲悪鬼村正』2009(R18)
 日本一ソフトウェア『htoL#NiQ -ホタルノニッキ-』2014
 野乃ノ之『ママにあいたい』2018
 ハースニール『朝からずっしり☆ミルクポット』2011(R18)
 ピンポイント『火葬パーティー ~喪服未亡人の淫乳搾り~』2008(R18)
 マーベラス『はぴねす!』2005(R18)
 BLACK Cyc『EXTRAVAGANZA ~蟲愛でる少女~』2006(R18)
 CLOCKUP『euphoria』2011(R18)
 I'm moralist『淫界人柱アラカ』2021(R18)
 Key『AIR』2000(R18)
 Key『リトルバスターズ!』2007(R18)
 Key『リトルバスターズ エクスタシー』2008(R18)
 LiLiTH「対魔忍」シリーズ2005-(R18)
 LiLiTH『対魔忍アサギ決戦アリーナ』2014-2019(R18)
 Qruppo.『ヘンタイ・プリズン』2021(R18)
 qureate『廃深』2021
 Purple software『春色逢瀬』2008(R18)
 psycho02『ミマモロール!』2020-
 TYPE-MOON開発『Fate/Grand Order』2015-

以上.

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