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いちご色の痕跡―残された疵とパンナコッタ・フーゴ

writer&illustrator:Tofu on fire

「チェーホフの銃」という創作テクニックが存在する。「ストーリーに登場するものはすべて必然性がなくてはならない」というルールである。
これはだいたいの場合キャラクターにも当てはまり、一般に流通する少年漫画等のメジャーコンテンツでは必要性のないキャラクターは存在しない。(『鬼滅の刃』のサイコロ状に切って殺されるモブキャラにも、「その敵が強いことを記号的に示す」という役割があることを忘れないで頂きたい)

しかしそんな中で、「登場したものの一回しか活躍せずそれも全く意味がなく、無意味なまま役目を終えた」キャラクターが存在する。

パンナコッタ・フーゴ

『ジョジョの奇妙な冒険』の第五部、『黄金の風』に登場するパンナコッタ・フーゴという少年がそれである。

この第5部『黄金の風』では、どうしてもカットせざるを得ない部分があって――というより、どうしても描くことができないエピソードがありました。

文庫版『ジョジョの奇妙な冒険』第39巻 あとがきより

『黄金の風』という部は、あとがきにて荒木飛呂彦本人が語るように、運命論をモティーフに作られたシナリオであった。また、登場人物にして味方チームのリーダーであるブローノ・ブチャラティが漁師である(キリストの一番弟子ペテロは漁師)、最終的に立ちはだかるボスがディアボロ=悪魔であることなど、キリスト教的図像が豊富に出てくることも特筆すべき事項であろう。そんな中で、カットされた――打ち捨てられた図像であるところのパンナコッタ・フーゴが与えられた役目とは、「イスカリオテのユダ」であった。
ここでは、彼と「イスカリオテのユダ」についてこれ以上掘り下げることはしない。それは本論の役割でないからである。では本論の目的とはなにか。

ジャック・デリダは「痕跡」という概念を打ち立てた哲学者であった。それは、彼が打ち立てたもう一つの――そしてより有名な「差延」という概念に於いて用いられる概念である。「意味は無限に『異なり』続け、意味の初源的な現前(性)といったものも果てしなく『引き延ばされる』」(『デリダを読む』ペネロペ・ドイッチャー)というのが「差延」の概要である。そして『引き延ばされた』あとに残るものが「痕跡」である。そしてそれは埋まることもあり埋まらないこともある。

「パンナコッタ・フーゴ」とは、物語の埋まらない傷であるがために埋まる運動を「二次創作的に」継続され続ける「痕跡」である、というのが私の意見である。
その意見を深く掘っていくために、もう少し我々はこの少年とその「傷」について読解していこう。


むき出しの傷、回収されなかった伏線

本名……『パンナコッタ・フーゴ』 16歳 1985年 ネアポリスの裕福な家柄の生まれ IQ152という高い知能を持ち弱冠13歳の時 すでに 大学入学の許可を与えられるが いかんせん…… 外見に似合わぬ短気な性格のため 教師との人間関係がうまくいかず ある教師を 重さ4kgの百科事典で メッタ打ちの暴行…… 以後 落ちに落ちてブチャラティんとこの下っぱとなる……

集英社文庫 『ジョジョの奇妙な冒険』 32巻 200-201pより

現状漫画媒体にて彼について確認できるパーソナルデータは、この台詞を発したイルーゾォという敵キャラクターに依るものがすべてである。マグショット風の見開きイラストにて大まかな身長が確認できるが、それさえも定かではない。これは、『ジョジョ』の味方キャラにおいて、いや敵キャラにおいてさえも異例の事態である。
『黄金の風』は終盤にて徐々に味方が減ってゆくにつれ、減ってゆく味方たちの詳細なパーソナルデータが明らかになる。身長、誕生日、好きな漫画や映画、食の好み、音楽、個人的な信条等がそれである。他にこのような記述が確認される『ジョジョ』の部には、それ自体が対立構造をなしているとも言える『スターダストクルセイダーズ』や、個々人のパーソナルがスタンドに明確に影響を与えている『ストーンオーシャン』などが挙げられる。『ダイヤモンドは砕けない』は日常的な事象を取り扱うため、そもそもこういった記述を必要としない。
つまるところ、明確なパーソナルデータを要求しだした『スターダストクルセイダーズ』由来の流れに於いて異例の存在とも言えるのがパンナコッタ・フーゴという存在である。

この情報の秘匿には荒木飛呂彦本人にしか連載当時把握できなかった理由があるのは前述の通りである。『黄金の風』は、そのキリスト教的な運命論を描写するために『イスカリオテのユダ』を必要としたため、味方の中に敵を紛れ込ませるために敢えてこのような素性不明のキャラクターを作ったのであった。
しかしこの役目は荒木の判断によって(『しかもケジメをつけるために、たぶんジョルノがフーゴの処刑に行くようなエピソードになったでしょうね。絶対に少年少女をヤバい気分にさせると思いこんでしまったのです』集英社文庫版あとがきより)取り消しとなり、彼は決断の場に於いて『ついていかない』という選択を取ることになり(しかもこれは本人の完全な自由意志かどうかが曖昧にとれる描写である)、充足されるはずだったバトルはチョコラータというキャラクターに取って代わられ、彼本人は中空に消えることとなった。

オレ達はトリッシュがどんな音楽が好みかも知らないんだぞッ!

集英社文庫『ジョジョの奇妙な冒険』35巻、フーゴ本人の台詞より引用

しかし実際に明らかになったのはトリッシュの音楽の好みの方であり、フーゴは好みの音楽どころか、その過去や考えさえも曖昧模糊としたまま消えてしまった。
そしてその「傷」は、数多の読者を彼の想像へ掻き立てることとなったのである。

充足される情報、生み出され続ける差異

フーゴ家は、昔ながらの名家というわけではなかった。違法すれすれの貿易と、第二次大戦の寸前にアフリカ諸国を相手にした投資をさせるだけさせて貸し主を破産させるというあくどいやり方でのし上がった成金に過ぎない。

上遠野浩平『恥知らずのパープルヘイズ』48p 9l-11l

パンナコッタ・フーゴは、ネアポリス郊外に、広大な土地をもつ、裕福な家の生まれである。何不自由ない恵まれた環境に加え、IQ152という、生まれついての高い知能。その人生は、一点の陰りのないかのように思われた。

アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』Episodio 12 ナレーションより引用

『黄金の風』が1999年に連載終了後、数多の二次創作的コンテンツが生み出された。それはあくまで個人の範囲に過ぎないものが大半であったが、その中でも特筆すべき二つのエポックが存在する。

まず、2011年に『VS JOJO』という企画に於いて、『ブギーポップ』シリーズにて有名な上遠野浩平氏による『恥知らずのパープルヘイズ』が執筆された。そのテクストによって語られたのが上記の『恥知らず』の引用であり、ここに於いてパンナコッタ・フーゴは極めて優秀であるがゆえに孤立しており、且つ情熱を感じることが出来ず、唯一祖母とのコミュニケーションによって心を保っている少年であったことが記述されている(そしてこの他者とのふれあいによる充足と渇望は、作品の根幹部分に影響する)。

その後、2018年にわたるまでこの「上遠野カノン」(英語圏のオタクは公式設定という意味で専らカノンという言葉を使う。正確にはもっと複雑な意味だが)は覇権を握り続けた。無論、「上遠野カノン」に逆らった二次創作もないことはないのだが、概ね上遠野浩平が作り上げた祖母との甘い思い出がパンナコッタ・フーゴに付属されることとなった。

しかし2018年にTVアニメシリーズが放映され、12話においてパンナコッタ・フーゴの「新しい」過去が公開されてから、議論は紛糾することとなる。まずこのTVアニメにおける彼の過去を紹介する。彼は幼いときから非常に恵まれており、後ろ暗いところはなにもなかった。しかし、父母の圧力によって精神を苛まれ、とりわけ父親に殺意を抱くようになる。その後めでたく大学(ここはどこの大学か触れられていない)に入学することになり、男色家の教授にセクシュアル・ハラスメント(もしかしたら強姦も含まれていたかもしれない)を受け、その直接的な現場の際にキレて暴行に至る、という、極めて問題含みなシナリオが描かれている。ここには「上遠野カノン」のような精神の葛藤はない。ただ、名家の少年が外部からの圧力に耐えかねて滑落していっただけである。

まず、このTVアニメに「キレ」たオタク圏は、専ら英語圏であった。それでなくても英語圏はペドフィリアに厳しい文化圏である。そして、祖母の喪失とそこに挿入されたペドフィリア教授の存在に、激しくキレた。
腐女子界隈も同様であった。受け入れるものもいつつ、Twitterで激しく不満をぶつけるものもいた。

しかしこの「TVアニメカノン」こそが荒木飛呂彦が制作にかんでいたシナリオなのであった。このことが明かされて以来、「パンナコッタ・フーゴの過去は人それぞれ違う」で済まされるようになる。

ただ、2024年現在、二次創作自体が下火になったこともあり、パンナコッタ・フーゴの過去についての「2つのカノン」は最早忘れ去られているといえよう。人々の記憶は混濁し、腐女子や二次創作者によって新しくつくられる新しいカノン、というより分裂したパンナコッタ・フーゴの過去がそこにはある。

さて、『散種』序文に於いて、デリダはこのようなことを口にした。

もはや縫い繕ろわれるがままにならないエクリチュールのかぎ裂き、すなわち、痕跡が意味(たとえそれが複数であろうとも)によっても、どのような形態の現前によってももはや鉤留めされることのない場、これを散種は終わることなく[目的なしに]開く。

叢書・ウニベルシタス ジャック・デリダ『散種』37p11-13l

ここでデリダは自らの序文が序文ではなく、『散種』自体の閾として、余白として、あるいは《吹き飛ばしの危険》(『散種』より引用)として機能していると告白している。書かれた序文はもう一つのテクストとなって、自分が書いたテクストの分身に成りうるのだ。つまるところ、デリダは、序文の権能の復権を叫んでいる。その中で、エクリチュールのかぎ裂きについて彼は触れているのだ。

さて、ここでまたパンナコッタ・フーゴへと回帰する。我々は、パンナコッタ・フーゴというエクリチュールのかぎ裂きを、どのような形態の現前によってももはや鉤留めされることのない場を、デリダが復権を叫ぶまでもなく無意識的に実行しているのではないだろうか。

私たちがパンナコッタ・フーゴにしたこと

分析は、どんなに必要な分析であろうと、そこで絶対的な限界につきあたる。指標作用が表現につけ加わり、その表現が意味に付け加わるのではないとしても、それにもかかわらずそうした作用に関して、根源的な「(シュプレシオン)代補」について語ることはできる。つまりそうした作用の付加が、ある欠如を、根源的な〈自己への非‐現前性〉を、あとから代理=補充するのである。そしてイデア的対象の構成を成就するために、指標作用がたとえば普通の意味での(エクリチュール)書く言語[文字言語]が、ぜひとも|《パロール》話す言語に「つけ加わら」なければならないのは、また話す言語(パロール)が、対象の思考されるものの同一性に「つけ加わら」なければならなかったのは、意味の「現前性」が、そして(パロール)話す言葉の「現前性」が、すでにその「現前性」自身に欠けはじめていたからなのである。

ジャック・デリダ『声と現象』189p

わたしたちは、オタクコミュニティは、パンナコッタ・フーゴになにをしたのか。また、パンナコッタ・フーゴは何者たりえるのか。
デリダの『声と現象』をここで引用する。

デリダは、話す言葉自体にはすでにその「現前性」が、「現前性」自身によって欠け始めていると指摘している。そしてそれを補填するのが書く言葉であるとも指摘している。

これを、一般的なマンガの、いやジョジョのキャラクターと置換してみるとどうだろうか。
例えば、ジョルノ・ジョバァーナは一般的な文脈では話す言葉として機能している。そのことによって現前性が揺らぐとしても、彼には「設定資料」という確固たるエクリチュールがある。彼の「現前性」は、あとからとは言え補充され代理されている。このことが、ジョルノ・ジョバァーナのぶれのなさを確立しているとしたらば納得であろう。

では、パンナコッタ・フーゴはどうか。彼の言及されたテクストをすべて振り返ってみてほしい。彼について言及されたテクストはすべて話す言葉だ。書かれたテクストすら否定されている。デリダの論理によれば、彼の「現前性」はすでに死んでいるといっても過言ではない。実際彼は作者にほとんど無視されている。

しかし、このオタクによる話し言葉の受け継ぎと読み替え、それぞれのオタクの読解の成果の差異を書く言語として捉えられるとしたら、パンナコッタ・フーゴの「現前性」は揺らがない。むしろ、現実を直視してみれば、パンナコッタ・フーゴの「現前性」は、少なくともファンダム、とりわけ彼のファンの集まりに於いては、各々の「解釈」によって成立しているとも言えるのである。

つまるところ、我々がやっている、パンナコッタ・フーゴのオタクがやっていることは、さながら『華氏451度』の人間図書館のように、書く言語のそれぞれの「現前性」の担保なのではないだろうか。

それ故に、パンナコッタ・フーゴとは、あまりにも脆弱にその「現前性」を保つ奇特な「痕跡」と成り得たのではないだろうか。

おわりに

差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。

ジャック・デリダ『声と現象』230p2l

ここまでで読解したのは、パンナコッタ・フーゴの書く言語としての特異性であり、彼の存在の特異性である。
パンナコッタ・フーゴは、人に読まれたぶんだけ人の中で生き続ける。それは、わたしたちを書く言語として媒介にして伝達され続ける永遠に埋まらない「傷」であり、「傷」であるが故に彼の「現前性」は、彼のキャラクターとしての存在は揺らがない。

デリダはもう一つ、このチャプターでの冒頭での引用のように、『差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる』と言及しているが、パンナコッタ・フーゴに関しては、彼の「現前性」の維持の特性上、「差延ありし」声、いやむしろ無限の差延がそこに存在するといえよう。

このような、「差延」によって無限に我々の中で変容し続けるキャラクターは稀である。いや、ほとんど存在しないと言ってもいい。なぜならば、キャラクターとは概して書かれている間は作者の所有物であり、それを解釈し続けることが我々の仕事といってもほとんど過言ではないためである。

しかし、パンナコッタ・フーゴに関しては、作者のものでもなく、誰のものでもなく、ただそこに物語に「傷」として存在するがゆえに、このような特異性を得ることができたのだ。これは異例なことである。

わたしはここに宣言する。
パンナコッタ・フーゴは作者を破壊する起爆剤である。
なぜならば、物語に独立した「傷」が、物語を如何様にも読み替えるコードとして機能するならば、作者の完璧な意図など最早存在し得ないからである。

この少年に関して、わたしは議論を寡聞にして知らない。拙論を起爆剤として、この少年を中心に論じる論考を数多読む日を夢見て、拙論を閉じる。

参考文献

『デリダを読む』ペネロペ・ドイッチャー  (情況出版)
『ジョジョの奇妙な冒険』集英社文庫版32、35、39巻 荒木飛呂彦
『恥知らずのパープルヘイズ』上遠野浩平 (集英社)
『ジョジョの奇妙な冒険』TVアニメ 
『散種』ジャック・デリダ (法政大学出版局)
『声と現象』ジャック・デリダ (筑摩書房)

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