見出し画像

璦憑姫渦蛇辜 12章「徒神(あだがみ)」④

 屋敷の入り口では人魚の兄弟達が5人揃って出迎えた。烏賊脚の兄弟が手を擦り足を擦り、ワダツミの到着を歓迎したが、一瞥することもなく通り過ぎた。人魚の姉妹が手を差し伸べて奥へ案内しようとするのも、塵でも払うように無造作に除けた。
徹底して無関心な男の後に付いてタマヨリは歩いた。いつかもこんなふうに、付いて歩いたことがあったような、不思議と心落ち着く気がした。

乙姫の居室の扉は開け放たれ、入口まで紫紺の衣の裾を引き摺って乙姫は出迎えた。
母の姿を見たタマヨリはびくりと震え、足が勝手に止まった。立ち消えることのない思慕と裏腹に、反射のように体が強張る。
そんな娘の姿など目には入っていない様子で、乙姫は艶やかに微笑んでいる。
「ワダツミ殿、このようなところへよくぞ参られた。妾はそのゲテ物の『母』にしてそなたの伴侶となるべき者」
ワダツミは微かに眉をひそめた。
「詳しくはこちらで見せようぞ」
ついっと白い手を伸ばした先には水鏡が鎮座していた。
「これは、陸の最果ても海の終わりまでも見通す鏡じゃ。来し方も行く末も、隠された姿まで映す」
「面白い」
近寄ってワダツミは鎮まりかえった鏡面を覗き込んだ。

静寂しじまをたたえた鏡面が曇り、竜宮が映った。白銀の髪を背中でゆるく結えた青い肌の男が、三叉の鉾を手にしている。珊瑚の林の中、彼は振り返る。泳ぎ回るのは目にも鮮やかな青い魚、桃色の魚群、黄色い筋入の入った小魚。桃源郷のような風景は一瞬でかき消え、今度は無数の太刀を浴びる男の姿が表れた。赤い珊瑚と見えたのは彼の皮膚から水中へ流れ出る血であり、揺らぎながら男を中心に広がっていく。そこを目がけて海中を雷が駆け、彼の身体は真っ二つに裂かれた。
次に映ったのは今と変わらぬワダツミの姿である。波光の色に艶めく髪も、これ以上望みようのない面立ちも、身体に刻み込まれた凶々しい紋も同じである。陰のある虚ろな瞳に見つめ返されて、刹那の夢から覚めたように彼は顔を上げた。
その時、水鏡は赤いデイゴの花を一面に映した。瞬き一つにも足りない間だった。
「ん」
視線を移したときには水はもとの水に戻っている。
「まこと竜宮の王に相応しいのはそなたじゃ」
乙姫は自らが水鏡に映りこまないないよう注意深く、ワダツミの左隣へ回り込んだ。

「懐かしいであろう、憎いであろう。そなたを追いやった竜宮が」
「お前には関係ないことだ」
乙姫は笑みを消さない。「これを」と云うと首飾りを掬いとってワダツミの前に示した。
「これは、竜宮の秘宝じゃ。人界に託したもののひとつ。他にもあろう、肚竭穢土ハラツェドに与えたものと賽果座サイハザが奪ったその一部……」
「あれか」
かつて海賊達と來倉ククラの勅命船で、それを巡って悶着したのだ。香炉の一部であるその宝玉は、今は賽果座サイハザの玉座の奥に据えられている。あれもいつか国と共に礁玉のものとなるのだろう。
「今、竜宮の力はかつてないほど弱まっておる。正統なる後継を追いやった報いじゃなぁ」
乙姫は手にした扇を傾けるとちらりとワダツミを見た。
「そこでじゃ、この勾玉に加え、陸に上がった秘宝を揃れば、竜宮の門は開くであろう」
「………!」
ワダツミだけではなかった。離れたところで話を聞いていたタマヨリも息をのんだ。

永遠に辿りつけない海境うなさかの故郷。
ワダツミの心を掴んで片時も離さないその場所へ、通ずることができるというのだ。
「ワダツミ!よかったな」
思わず声をあげたタマヨリに乙姫の冷ややかな一瞥が飛んだ。
「妾はそなたが竜宮の王となることに力の限りを尽くそう」
「悪くはない話だ」
「妾とて竜宮は憧れの地。こんな『下海』の支配より、神々の地へ行きたいものよ」
「今が好機ということだな」
「じゃがひとつ、妾にも、そなたにも、邪魔になるものがおる」
乙姫の乾いた視線を追ってワダツミがタマヨリを見た。
「要らん」
と乙姫は云い放った。孕んだ海神の片割れは、今や怨敵に変わった。 
「要らぬどころではないわ」
「仮にもお前の産んだものをか」
「この予言を聞けば、納得するであろう」
乙姫は自らの爪で指を掻き、血を一滴、水鏡の上に垂らした。

途端に水は黒く濁って渦巻き、飛沫をあげて波打った。水そのものが苦悶しているような異様なありさまだった。
タマヨリをはじめ、凪女も乙姫もワダツミさえも、聖と邪の坩堝からの響きに厳かに耳を傾けた。
濁りの中に乙姫に似た女の顔が浮かぶ。しかし強くも夢見るような眼差し、今しがたまで微笑んでいたような気配の残る柔らかな頬と口元を見れば、タマヨリだと判る。その顔が歪み怪魚に変わり、怪魚は大きく口を開け渦もろとも己の姿を飲み込んだ。
水は告げた。

「ーーー母なるものを 殺し 父なるものと 交わり その者 真海の 最期の王と ならんーーー」

驚愕とも怒りとも、ともすれば憂いているようにも見える表情が、ワダツミの目に浮かんだ。
水は自らの役目に耐えかねたように水鏡から溢れ出し、膿を吐くようにあらかたの水をこぼした後に鎮まった。
ぽかんと惚けたように立つタマヨリに、
「お前のことだぞ。これでも分からぬか」
とワダツミは云った。
分からぬか、と云ったのは先ほど対峙した際、完全なる『海神』となることが彼女の本分であると断じたことだ。
しかしタマヨリには到底認めようがない。母を前に、お前は母親を殺すと予言される残酷に耳を塞ぎたかった。
「妾はな、ワダツミ殿。怖ろしいのじゃ」
乙姫は潤んだ眼差しを男に向けた。
「自らの腹を痛めた者に、『下界げかい』に幽閉される身体にされた。その上、殺され、さらに父御と交わる穢れた罪をおかした自らは竜宮の王へおさまるなどと……」
「……母上、そんなことは」
「黙れ、恩知らずの畜生が」
母に近寄ろうとするタマヨリの手を、後から凪女がそっと握った。なだめるように力を込めてくる。振り向いてみれば、もの云わずとも凪女が受け止めてくれているのが分かった。
「どうか妾をこの化け物から救っておくれ。共に予言を阻んでおくれ」
「つまり、取引をしろと」
「かねてより『真海しんかい』の王はそなただと思うておうた」
「建前は要らん。つまり俺に海境うなさかを越えさせるから、竜宮の妃の座を約束しろと、そういうことだな」
「身も蓋もないお方……」
「娘は殺しておくか」
「おそらく海境を越えるには『いさら』と『波濤』、ふたふり揃えねばならぬかと。生かしておくのも忌まわしいが、死んで『いらさ』が消えてしまってはしようもなきこと」
「飼い殺しか」
「十分かと」

さらってきた娘達の血以上に、タマヨリの血が効くことに乙姫は気づいていた。そうなれば美貌と若さを保つのに生かさず殺さずでなければならない。しかし同時に、生かしたまま予言を阻まなければならない。
タマヨリが真の姿になろうとワダツミなら互角かそれ以上であろう。彼を伴侶とすることは保身においてこれ以上はない。タマヨリが自分に従順であることも好都合だった。
 口をつぐんだままのタマヨリをちらりと見ると、彼は乙姫に云った。
「お前は、人や生き物ものを操ることに長けているのだろう。鬼糸巻頴娃さかなもその侍女もよく躾られている。タマヨリも勝手の極みだったものが、しおらしくなったものだ」
「ほほほ。長く術を練ってきましたゆえ。鰐でも鯱でも意のままに繰って見せましょう」
「なるほど。それでは妻となるものの名を聞いておこう」
「それは、閨で……」




続く

前回はこちら↓























読んでくれてありがとうございます。