璦憑姫と渦蛇辜 3章海賊①
「唄が……聴こえないか?」
甲板に降り立った夷去火が霧の立ち込める海を振り返った。
「は?聴こえませんよ。酔ってるのか?」
先をいく浪がひそめた声で答える。
「俺がいくら呑んでも酔わないのは知ってるだろう?」
「やっぱ呑んでるんだな」
「呑むかよ。それは今回のヤマが終わってからだろ!」
「しー、声がでかい」
浪が夷去火の口を塞いだ。
「ああ!」
わざと大声を出して夷去火はその手を振り払うと、
「いいだろ、コソ泥しようっていうんじゃねえんだ。全員潰した方が仕事が早い」
と息まく。
「こっちはお前と私とあと三人。数で来られたら厄介だろう」
噛んで含めるように云う浪を押しのけ、
「数なんざ関係ねえ」
と先に立ってどしどし進んでいく夷去火の剥き出しの肩と腕には無数の傷跡がある。どれも古いもので、それは今の彼の放胆な強さを作った傷だ。
「俺とお前で十分カタはつく」
「そうだが。私はこいつらに怪我をさせたくないのだよ」
浪に親指で指された後ろの三人―ハトとカイとウズ―はお互いの顔を見合わせた。
「だーいじょうぶだぞ、浪。今日こそ手柄をあげずわっっちゃああ!」
意気込んだハトは云い終わらぬうち足を滑らせた。
「お前がいちばんお荷物なんだよ」
浪の深いため息が霧に吸い込まれる。
「まったく今回の配置はどうなってるんだ、コトウはそろそろ耄碌してんじゃないかな」
ひとりぶつぶつ云う彼に「めんぼくないな、おれー」とハトは立ち上がりもせず笑った。そこに鋭い一声が放たれた。
「動くな!」
その声とともに足音は一瞬で彼等を取り囲んだ。
「ひゃー!」
ハトが寸でのところで逃げた跡には左右から槍が突き立てられている。
「お前ら海賊か!?」
衛士が十数名、剥き身の剣を携えて取り囲んでいる。
「ほらみろ、お前の声がでかいから」「ハトの馬鹿のせいだろ!」「いや、ごめーん」
まるで緊迫感のない三人にかわってカイとウズが叫んだ。
「だとしたらなんだ!」
「歓迎でもしてくれるのか!」
「そうだな。お前ら向きのやり方でな!」
衛士の隊長とおぼしき男が手をかざすと、前方の六人が飛びかかかった。動いたのは夷去火だけだった。正確には浪と三人が構えるより早く、彼が衛士の懐に飛び込んでいたのだ。
肉を撃つ鈍い音と呻きが重なる。顎を抑え崩れる衛士を蹴りさばき、そのままもう一人の腹に夷去火の蹴りが食い込む。返しざまの横肘打ちで別の男が沈んだ。剣が空を切る音の直後、呻きが上がり剣は夷去火の手の中にあった。そのまま彼は踏み込んで二人を切り倒し、残る一人にそれを突き立てた。六人全員が床に伏したなか、かろうじて立ち上がろうとする一人の首を浪が短剣で掻き切った。
衛士たちに動揺が走る。
「何事か!」
屋形から身なりのよい男が出てきた。
「賊です。大使様はお下がりください」
大使と呼ばれた男を背後にかばった衛士めがけて飛んできた槍は、彼を貫いた勢いのまま帆柱に突き刺さった。
さきほどハトを刺し損ねた槍を投げたのは浪だった。狙いも正確なら肉を貫いてもなお進むほどの力だ。鋼のような夷去火に比べればあえかな浪の秘めた力をみたようで、ウズは戦慄した。
思わず後ずさった大使に、慇懃な笑みを浮かべて浪は呼びかけた。
「大使殿。宝珠をお渡しいただけますか?」
「賊が何を云う。この船には護衛船が三隻ついておる。いずれも屈強な衛士を選んで載せておる。おまえらごときあっという間に海の藻屑であるぞ」
大使の口調は殿上人らしく落ち着きはらっている。命令することに慣れたものの立ち居振る舞いは衛士の動揺を鎮めた。
「っていうけど、オッサン!」
夷去火が酔狂な声をあげた。
「その護衛船、俺の仲間がぜーんぶ沈めちゃったよ。どうする?」
「そうよー、どするの?」
とハトが尻馬に乗った。
「漕ぎ手たちも呼べ、厨の者にも武器をとらせよ」
大使は海賊を睨みつけたまま云った。
「あれは命にかえても我が君に届けねばならん。そのために我らは海を渡ったのだ」
「知ってますよ。でもうちのお頭も宝珠がどうしても欲しいと申しまして。獲ってこないと、私、怒られてしまうので」
浪は柳眉をひそめながら笑った。
「すげーこれ御殿か?」
「船だ」
ワダツミに持ち上げられ船べりに手をかけたタマは目をぱちくりさせている。
人の集まる大きな港へ行くと云いだしたのはワダツミだっだ。背が伸びてタマヨリの着物がずいぶん寸足らずになってきたのだ。継ぎはぎでは間に合わないほどになり、島では手に入る布にも限りがある。それで街へ行き着物を調達するために小舟を捨て、通りかかった船に乗り込んだ。通りかかった、というのはタマヨリからしたらだ。
タマヨリが唄えば、船は誘われる。ワダツミが仕向けた通り、霧の海、太陽の位置の不確かななか船を引き寄せるのはわけなかった。
「おれまだこれ着れると思うけどな」
腿の半ばより短くなった裾を引きのばした。麻の着物はところどころほころび、継いだ布も薄くなっている。その布も海彦の着古した着物から取ったもので、今となっては形見のようなものだった。それでも、新しい着物や港街という響きはタマヨリをたまらなくわくわくさせた。
乗り込んだ船だって見たことないほど大きく立派だ。霧がかり遠くからは分からなかったが船体はおそらく朱塗りで、見上げるほどの帆柱に装飾をほどこした主屋形が明かりの中に浮かんでいる。
「先客がいるな」
ワダツミの言葉を文字通りうけとめる。タマヨリにはこの船は自分たちを港街まで運んでくれる気のいい渡し船でしかない。ほかにも旅人がいて、それでこの賑やかさなのだろうといたってのん気に船のあちこちを見物してまわった。
「大使どの、宝珠はそれかな?」
屋形から錦に包まれた物を恭しく抱き、青白い顔で大使は出てきた。狭い甲板には衛士と船漕ぎたちが折り重なって倒れていた。
大使は海賊の目からそれを隠すように懐にしまった。
「それくれないと困るって云ってるんですが」
浪が腕組みを解いて大使の喉元に短剣を突き付ける。
「生きたまま渡してくれても死んだあと渡してくれても、どちらでもいいんですよ私は」
大使の体に震えが走ったのをみて、彼は小ばかにした笑みを浮かべた。
「とりあえず船漕ぎは海に投げちゃっていいっすか?」
取り押さえた人夫たちを持て余したカイが聞いてくる。売り物にするなら傷をつけられないが、意識がもどった者から抵抗するので厄介だ。
「ああ、いいよ、要らないよ」
浪の一言で人夫たちは暗い海へ突き落されそうになった。
「まあ待て。こいつらには陸まで働いてもらう」
カイの横に人影が立った。カイが振り返る間もなくひと薙ぎで彼は船の外に放られ、悲鳴が尾を引いて海に消えた。
「誰だあ?」
ハトが近づくと鉾を持った男が立っていた。
「この船は來倉まで行くのだろう?」
男は大使に問うた。男の見た目は衛士でもなければ海賊でもないが、武人の風格と賊の卑しさをふたつながらに持っている。霧を透かした薄日に呪符のような入墨がのぞき、大使の目がそこにとまった。
「おぬしは……?」
「渦蛇辜」
大使は長く忘れていた男の名と顔を思い出した。
「死んだと聞いておったぞ!」
ワダツミは一跨ぎで大使の脇に来るやいなや、鉾の石突で浪を撥ね飛ばした。船べりまで飛ばされて浪は背を打って伏した。
「俺は來倉に行きたい。船を出せ」
大使に向かって指図すると、ワダツミは周囲を見渡した。
「虫は払ってやってもよいぞ」
大使の顔に血の気が戻り、
「もちろん、船は出す。來倉の大王様の元まで私を送り届けよ」
と鷹揚に命じ返した。
「おぬしのことは聞き及んでおる。北の砦を一人で崩し蛮人どもを駆逐したと。衛士はみな賊にやられた、心強いことよ」
ふっと大使の体が宙に浮いた。ワダツミが片腕で吊るしあげている。
「なあに味方と思うてくれるな。役人など陸の鼠に過ぎぬ」
そのまま振り落とされた大使はぎゃっと叫んで床に丸まった。
「さて」
と夷去火とハトとウズに向き直る。背後の浪は垣立で躰を支え、まだ痛みにあえいでいた。
「三匹」
ワダツミは低く呟いた。
「さっき虫っつったよな」
夷去火の肩が下がった。次の瞬間彼の左脚がワダツミの首筋に食い込んでいた。
「面白いこと云うね」
耳元でささやいてそのまま肘突きが顔面に入る。
倒れる、とウズは思ったがワダツミの躰はこらえた。
「頑丈だな」
間髪いれず殴打が続くが、ワダツミは怯みもせず受け続け数発の後、突きも蹴りもかわすようになった。
「あれれれ?夷去火のが当たらないよ」
ハトが指を咥えて目をぱちくりさせた。
「嘘だろ相手は夷去火だぞ」ウズは雲行きの怪しさに不安を覚えた。
「はん!避けてるだけじゃ俺に勝てねえぞ!それは飾りか!」
夷去火に焚きつけられ彼は鉾を構えた。
「船を壊したくはなかったのでな」
夷去火の狙いは鉾を振る瞬間だ。大物を振れば胴が空く一瞬がある。彼の目はその隙を捉え間を詰めた。
しかし夷去火の拳は彼に届くことはなかった。
「『砕』」
大量の水が夷去火の体を帆柱より高く押し上げると、そのまま甲板に叩きつけた。
何が起きたのか夷去火は無論、傍観していたハトにもウズにも分からなかった。水は彼が鉾を掲げた瞬間、虚空から湧き出てて龍のように昇った。
水は船を溢れて海へ零れた。ハトもウズも大使もびしょぬれになったがワダツミだけは濡れていない。叩きつけらた夷去火は微動だにしない。ハトとウズは得物を握りなおした。海賊仲間でいちばん腕っぷしの強い夷去火が太刀打ちできない相手に何ができるでもない。しかし逃げ出すわけにはいかなかった。
「おい!ワダツミとか云ったな」
弥帆の影からずぶぬれになった浪がたち上がり、屋形の灯りの届くところまで進み出てきた。
「こいつがどうなってもいいのか?」
腕のなかにタマヨリがいた。短刀はタマヨリの脇腹にピタリとあてがわれ、僅かな動きで割くことは易いだろう。タマヨリは「ワダツミー!ワダツミー!」と叫び必死にもがいている。
ワダツミは首を傾げ、考えるような素振りを見せた。
「この際どうなってもよいか……。好きにしろ」
「ええええ!」
タマヨリから悲痛な声が発せられたが、人質として価値がないと知るやいなや彼女を投げ捨て槍を放った。それを目くらましに背から抜き取った長剣で切りかかる。
「ハト!ウズ!宝珠を奪って逃げろ!」
浪の指示にすかさず二人が動いた。それより早く大使は懐から宝珠を出してワダツミめがけて投げつけた。
「それを、我が君に!なんとしてでも!」
だがワダツミにとっては何の価値もないしろものである。先に手を伸ばした浪の切っ先に宝珠は当たり、錦を解きながら海へと落下していった。
「あああああ!」
大使は船べりに駆け寄り、ハトとウズは宝珠を追って海へと飛び込んだ。一撃を鉾で止められてつばぜり合いになった浪は身動きが取れない。
「くそ!」
そう叫ぶ男たちの間を縫ってタマヨリは海へと飛び込んだ。
一瞬であったが、何かとても美しいものが海へ落ちていくのを見た。
欲しい。考えるより先に惹かれてタマヨリは手を伸ばした。それは彼女の腹に納められた貝殻片とも似ているようにみえた。
つづく