璦憑姫と渦蛇辜 1章災厄来りて②
嵐の前触れは風の匂いで分かる。
空気が重くなり潮風が肌に膜のように纏わりつく。そんな時決まってタマの小さな胸のうちはざわざわと落ち着かなくなるのだ。
あの日、兄ィさを沖へ流した嵐のように、兄ィさのお父さも嵐にのまれたのだろう。島の岬にある島民の墓地にお父さは埋まっていない。むくろは魚に食われ骨は『中津海』の人魚の子どもの玩具になったのだろうと村人達はこともなげに言う。『中津海』は海神の棲む『真海』と悪しきもの棲む『下海』の間にある豊饒なる海だ。死んだ漁師の魂はその海へ還り、海から島を守るのだと云い伝えられている。
婆さが長生きでいるのも兄ィさが病気知らずなのも、海で死んだお父さが守ってくれるからだとタマは信じていた。だから嵐の予兆があればタマは海に向かって手を合わせた。
「どうかおうちが飛ばされないようにお守りください。兄ィさを怖がらせないように、雷を鎮めて下さい」
それからタマは海に向かって唄うのだ。その唄は海に眠る魂と、それからどこかにいるかも知れない自分の親兄弟に手向けた。死んでいるなら守ってほしい。生きているなら会ってみたい。タマは婆さの子守り唄しか知らなくて、それを繰り返し繰り返し唄った。
嵐は一晩中、小さな島をいたぶりつづけ、入り江に舫った船を砕き、森の木々は折れ湧水をふさぎ、砂地の多い島の段々畑は崩れた。
翌朝、大人たちが総出で復旧に当たる中、タマは何かに誘われるように海岸線を歩いた。濁った海とは対照的に空はからりと晴れ、叩き落されたデイゴの花の赤さ、砂の一粒一粒、折れた樹木の剥き出しの内側がいつもよりくっきりと見えた。激しい雨に洗われた島の全てが、光と影との境を濃くしてタマの目に飛び込んでくる。そうして普段は近寄らない島の北側まで気の向くまま歩いた。モンパノキが急な岩場に張りついて茂るその一帯は、潮が引いたときだけ砂浜が現れる。その浜をつたい隆起の激しい岩場を越すと海蝕洞窟があった。
タマは浜に降り立ち、足元で右往左往するヤドカリたちと遊んでいたが、岩場に小舟とおぼしき船の残骸を見つけた。村の誰かの船が流されてきたのだろうか。島では木材は貴重だ。形はかろうじて残っているし、目印があれば船の持ち主がわかるかもしれない。
タマはぴょんぴょんと岩から岩へ飛び移り船のそばまできた。覗きこんで息をのんだ。張り付くようにして男が船の中に横たわっていた。きつく目を閉じている。見たことのない顔だ。
水を吸えるだけ吸った着物が肌に張り付き、がっしりとした骨格だろうが全身が浮腫んで膨れ、肌には水疱のようなものが無数に浮き上がっていた。
「おい!おい!」
呼びかけると男は目をあけた。
「大丈夫か?」
「水を……」
男はそれだけ云うと目を閉じてしまった。
「しっかりしろ」
タマが男の手をとると、濡れて冷えているはずの皮膚が焼けるように熱かった。
―こいつ病気か?
タマは男の水疱を気味悪そうににらんだ。
「ミ、ズ」
と再び男が呻いたので、タマは走りだした。岩場を駆け林の中を近道しうちに帰ると、水桶に残った水を汲み筵を持ってまた駆け戻った。
それから、村人たちが船や家の修理や崩れた畑を作り直すのに明け暮れる間、タマは毎日漂着した男の元へ馳せた。
海蝕洞窟の奥、潮が満ちても濡れない場所に筵を敷き、簡易な囲炉裏を組み火をおこし水を運んだ。男は無口だった。タマは男のことは誰にも話さなかった。
最初水を飲み下すにも難儀していた男は、高熱が引くと次第にいろいろなものを口にできるようになった。タマは磯で採った貝や小蟹を汁にして与えた。森で果実を採ってくることもあった。まだ酸いサルナシに顔をしかめてむしゃぶりつく男に、熟れたのを選ってやった。
男の鷹揚な仕草や口数の少なさから、人と接しているというより大きな動物の世話をしている気がしてくる。村人と時々来る行商人のほかの人間を見ることないタマには、珍しいものには違いなかった。それに男は島民とは明らかに違った。豊かな髪は波光のように輝き、肌は磯焼けした島の者にはない白さだった。精悍な漁師にも負けない体躯には、見たことのない文様が彫り込まれていた。鮫や蛇除けに漁師たちも墨をいれることはあったがそれよりもっと禍々しく、男の躰そのものが呪符のようにも見えた。何より眼差しが毒矢のようであった。それでも、人には慣れない生き物が、自分の手からものを食うのを愛おしむような気持ちがタマには芽生えていた。
間引いた野菜や割れた壺をどこかへ持って行ったかと思えば、椰子の実を削りお椀作りに精を出すタマを、婆さも海彦も別段気にかけることはなかった。もともと年近な仲間と遊ぶより、ひとり海で泳ぐ方が好きな娘だ。何か新しい遊びのつもりだろうと思ったのだろう。
タマはタマで家のものに男のことを云うのがはばかられた。 醜く浮き出た水疱も消え、日増しに動きや表情に力がます男の、今ではタマに投げかける一瞥にも他人を寄せ付けない昏い光が宿っていた。
ある日、いつものように海蝕洞窟を訪うと、男は暗がりにあぐらをかいて卵を啜っていた。ずざんずざんと波音の響く穴の中で、足元には頭をもがれた親鳥が転がり、卵の殻が口を開いて散らばっていた。タマがぞっとしたのは男の目付きだった。蛇のようにも鬼のようにさえ見えた。
島の者はどんな命でも、屠ることに畏れをいだき礼を欠くことはない。男のそれはタマの知らない禍々しさだった。殺したい時殺し、喰いたい時に喰うものの暴慢な姿だ。
―婆さや兄ィさが心配するかも知れねぇ。
得体の知れない後ろ暗さがタマに秘密を作った。
「……唄っていたのはおまえだろう」
翌日珍しく男が話かけてきた。昼間男は眠り、夜になると山へ入り木を集めた。小さなものは薪に、大きなものは船の修理に使っているようだった。
「唄?」
「俺が流れ着いた日だ。唄っていたはずだ。おまえが呼ぶから俺はここへ来た」
ああそうだ、とタマは思った。海に還った魂たちに祈りと唄を捧げていたのだ。おかげで小屋も雨漏りぐらいで飛ばされることはなかったし、兄ィさの舟も無傷で見つかった。
「ああ、おれだ」
男は目を細めた。瞳の光が強くなりタマは背筋が震えた。
「聞こえたのか?」
「聞こえたからここにいる」
タマは首をかしげた。男が漂着したとき、船には櫓も舵もなかった。たとえ嵐の中唄が聞こえたとしても、板切れ同然のものでどうして島まで来れるだろう。おかしなことを言うものだとタマは眉をひそめた。
どこから来たのか聞いても男は答えなかった。船が出来たら島を出ていくといった。タマは男がすっかり回復するのを待ち望むと同時に、彼がなるべく早く島を出ていくことも願った。
何故だろう。タマは男の目をみると嵐の前触れのように胸がざわつくのだ。大きな災厄がせまるような。
その予感はほどなく的中した。
婆さが高熱を出し寝込んでしまったのだ。男と同じ水疱を婆さの皺深い顔や肉の落ちた手足にみとめた時、タマは叫びそうになった。島に医者はいない。せめて冷たい水を求め、タマは日に何度も湧水まで駆け上った。湧水で会った島の女が心配し、冷えた枇杷の実をタマに持たせてくれた。
小屋に戻ると海彦が漁から戻ってきており、婆さのそばにしゃがみ込んでいた。
「枇杷、もらったよ。婆さ食えるか?」
しーと海彦が指を立てた。
「婆さ眠とるでな」
タマが足音を忍ばせ近づくと婆さは静かに眠っていた。あれほど苦しげだった息の音も聞こえず、夕凪の海のように静かに眠っていた。婆さの目が開くことはもうなかった。
そして病は島中に広がった。
男も女も大人も子どもも熱に喘ぎ、しまいには水疱から血と膿を吹いて死んだ。死んでいくのは弱いものからだった。海彦も病を発したが、三日三晩の熱のあと俄かに回復の兆しを見せ始めた。
こんな流行り病はみたことないと村人は口々に喚きたてた。竜神様の祟りではないか、いや他の島と交易した品物に病のもとが紛れていたのだ、大陸から風にのって飛ばされてきたのかも知れぬ。憶測が飛び交う中、枇杷をくれた女が言った。
「いちばん最初に病になったのは、海彦のお婆でねえか?」
つづく